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2006年8月15日 (火)

8月15日

 第二次大戦の記憶は一人ひとり違う。私は幼児だったが、断片的にいくつか覚えている。名古屋市内に住んでいたとき、隣のマーケットの屋根が、落ちてきた焼夷弾(不発)で穴が開いたのを見た。また、近所に落ちた米軍の飛行機の残骸とともに兵士の死体(一人)があるのを見た。名古屋市内は危険なので、母と子供4人で市外の今川というところに疎開した。そのときのことだが、米軍機が上空を飛んできて、こわくて必死になって物蔭をめざして走った。機銃掃射のことまでは記憶にないが、おそらく親に注意されていたのだろう。

 疎開先の家はもともと農家のわら小屋だったのか、とても狭かった。せいぜい3畳ぐらいの広さしかなかった。母は持ってきた着物をコメなど食べ物に交換していた。戦争が終わってから、しばらくして、馬が荷台を引くのに乗って、名古屋まで1日かけて帰った。

 翌年の4月、小学校に入った。といっても、校舎は戦争で焼かれ、なかった。校舎が再建されるまでは、学区内の寺のお堂などを借りての授業だった。教科書の一部は墨で塗って消してあった。小学校入学前の身体検査では、米軍が持ち込んだDDTを身体中に振りまかれた。その頃の私たちは皆、薄汚かったのだろう。DDTの匂いはいまも思い出すことができる。

 子供の頃の貧しさは相当なものだった。しかし、周りを見ても、それほど豊かな奴もいなかった。だから、そんなものだと思っていた。いま、そんな回想ができるなんて、幸せだ。

 中国を初めて訪れたのは1990年の夏。中国東北部を旅行、帰りに北京に寄った。その旅で、大連から北に行けば行くほど、人々の生活水準が低くなっていくのがわかった。そして、自分が経てきた暮らしを、フィルムを逆回しして見ているようにさえ感じた。

 いま、年々、中国の人々の暮らしがよくなっていくのはうれしいことだ。ただ、沿海都市部などが先進国並みに豊かになっているのに、内陸部の農民が、私の戦後まもない頃とあまり変わらない生活水準だとすると、その格差のあまりの大きさに唖然とする。中国政府がやるべきことは沢山ある。が、日本も、お手伝いすべきことがまだまだある。

 

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