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2006年11月30日 (木)

「防衛省」への変更

 防衛庁を防衛省に格上げするための法案が今国会で成立することがほぼ確実となった。格上げすることのメリットは新聞等でくわしく報じられている。しかし、日本の近代政治史にくわしい知人は防衛省への格上げは好ましくないという。彼の話を私なりに補足すると、大筋、以下のようなものである。

 防衛庁という名称だと、国際社会の常識で見たら軍隊を持つ組織ではない。庁を名乗ることによって、日本は平和国家を志向することを諸外国に示してきた。吉田茂もそのことをよくわかっていた。だが、防衛省となると諸外国と同様の軍隊を持つ国家になることを意味する。それでいいのか。

 日本の近代史を振り返ると、原敬、山県有朋が大正10~11年(1921~22年)に亡くなるころまでは、近代国家を築くのに功績のあった元勲などが欧米と戦争することはならじ、と軍部の跳ね上がりをしっかりと抑えていた。山県ら元勲たちは、幕末に欧米の軍艦を相手に戦争して、欧米の軍事力に及びもつかないことを経験していたからだ。

 しかし、彼らがいなくなり、その後、日本は急激に軍国主義に傾斜する。そして太平洋戦争となるが、その間に法律が変わったわけではない。要するに、国の指導者が世代交代し、欧米との戦争体験のない連中がそれいけと戦争に突入していったのである。

 いまの日本は、ちょうど大正後期あたりと似ている。第二次大戦と敗北によって戦争の悲惨さを体験した世代が政治の指導者だった時代が終わりを告げつつある。そして、戦争を実感したことがない世代が国のリーダーになっている。防衛省になって、シビリアン・コントロール(文民統制)の徹底などは従来と変わらないにせよ、国の指導者が本当に軍隊の跳ね上がりを抑えるだけの政治理念や信念と、国民からの信頼をかちえる人でないと、歴史は繰り返すおそれがある。 

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2006年11月29日 (水)

霞が関OBの述懐

 中央官庁の次官になり、その後も霞が関および政界、経済界に影響力を持つA氏に、霞が関の最も重要な課題とは何か聞いてみた。

 「行政が直面する重要な問題はいくつもの官庁にまたがる。だから、テーマに応じて関係する諸官庁の人間が機動的に集まってプロジェクトチームをつくるようにすべきだね。いまでも自分の省のことしか考えない役人が多いけど。」

 「いまは、いくつもの省庁の人間を一緒にして研修をやっている。それで他省庁の人と顔を合わせる。これは(他省庁との横の連携を進めるうえで)いいことだ。」

 (中央官庁の採用を一元化したほうがいいのではないか?)「いや、それはだめだね。組織への忠誠心を考えると。」

 (A氏が現役のころは自民党がずっと政権の座にあった。その時代は官僚の天下だった。)「当時は、ある自民党の政治家が“おれたちは役人の手のひらの上で踊っているような気がする”と言っていたことがあるが、まさにそうだった。役人が決めたものを自民党の政治家にやらせる。振り付けまでこっちでやった。いま思えばやりすぎだね。」

 「我々のころは、自民党に説明するだけでよかった。いまの現役は、野党の一つひとつにまで説明にいかなけりゃならんという。あなた(A氏)のころとは違って、いまは大変なんですと現役は言っている。」

 官僚支配の時代から政治(家)主導の改革の時代へと移りつつあることをA氏の話からも感じる。

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2006年11月28日 (火)

自民党復党問題と平沼氏

 郵政民営化法案に反対し、自民党を離れていた国会議員の復党問題が決着した。復党願いを提出した12人のうち、いまもって郵政民営化には反対の信念を持っていて、誓約書を出さなかった平沼赳夫氏だけは復党を認められなかった。

 平沼氏とて信念にこだわることのプラス・マイナスを考えたことだろう。だが、この信念を曲げなかったことで、平沼氏は自民党に大きな貸しをつくったと言えよう。全員を復党させたなら、世間は、無原則で票のためなら何でもするという古い自民党の復活と批判するに違いない。その結果、来年の参議院選挙では、小泉前首相が指摘しているように、国民の厳しい批判を浴びることになる可能性が強いからである。

 民主党の小沢代表にしても、全員復帰は自民党叩きの絶好の材料と考えていただろう。それだけに、残念だという思いと、信念を貫いた平沼氏への敬意とが心の中で交錯しているのではなかろうか。

 安倍首相は平沼氏のおかげで救われた。ついている。しかし、つきだけでは政権は長続きしない。補正予算、07年度予算など、首相の指導力が問われる課題が待っている。

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2006年11月26日 (日)

お客様の視点を欠くお役所仕事

 以前の住居のままだった自動車の登録を都内に移転するため、その手続きをしに、このほど運輸支局に行った。これで車検証とナンバープレートが変わった。従来、クルマの諸手続きは、自動車の販売店に代行してもらっていたから、自分でやるのは初めて。戸惑うことが多かったが、お役所仕事だなあと痛感することがいくつかあった。

 予め、必要な書類等を電話で確かめ、それらを持参して運輸支局にクルマを運転して行った。

 見当をつけて三つある建物のうちの一つの二階に行った。空いている窓口に行き、用件を言って、どこの窓口に行ったらいいかをたずねる。そうしたら、1番の窓口に行くようにと言われた。1番窓口は7、8人並んでいたので、そのうしろに並ぶ。応対者が3人と実習生がいたからじきに応対してくれた。持参した書類を確認してから、「○○の用紙と印紙税を買ってきてください。あそこの自動販売機の横にあります」といわれた。

 指示されたところに行ったが、自動販売機しかない。自販機は上下に5つだったか分かれていて、それぞれ違う用紙をセットにして売っている。そのうちのどれかなと思って一つ一つ読んでみたが、どれが自分用かわからない。

 そこで、すぐ近くの相談コーナーに行った。こちらの話を聞いて、「それなら別の○○棟に行って購入しなさい。そのほうが安い。自販機の用紙セットは使わない用紙まで一緒に入っているからムダになる」と教えてくれた。

 別の棟に行って別々の窓口で買う。そして元の建物に戻り、1番の列に並んだ。応対者は書類を確認し、「この用紙(A4)に鉛筆で記入してください。あそこの台に書き方の見本がありますから」と言う。さて、その台に行ってはみたが、赤っぽい用紙の見本が見当たらない。掲示してある用紙はA3ぐらいのかなり大きなサイズのもので、2年(?)も貼ってあるうちに文字や線がかなり薄れている。

 ぐるぐると二度三度見て回ったが、求める見本は見当たらない。そこで、大きなサイズで、文字や線が薄れた用紙の書き方見本を読んでみた。そうしたら、これが探していた見本だとわかった。それをお手本にして用紙に記入。何の意味があるのかわからない部分もあるが真似て書く。そして1番窓口に並ぶ。三度目だ。ようやく受付が終わり、受け取る窓口の前で待つことに。15分ぐらい待ったあと、書類を受け取り、今度はもう一つの××棟に行く。そこで、簡単な手続きをしてから、新しい車検証と、新しいナンバープレートを受け取る書類を受け取る。

 ○○棟でお金を払ってナンバープレートを受け取る。自分で取り付けるように言われ、ネジを4つもらった。表に出て何本も並んでいるドライバーのうちの1本を借り、ネジのはずしかたの説明を読んで、マイカーに向かう。前の2つと、うしろの右は簡単に取れたが、ネジの部分を覆っているあと1つがドライバーでやってもやっても壊れない。しまいには右手や腰が痛くなった。それで、何か、うまい方法を見つけられないかと思って、ドライバーのおいてあるところに行ってみた。そうしたら、一番左にあるドライバーだけはちょっと違っていて、先がとがっている工具だとわかった。読みにくい説明文は、1番のドライバーもどきのことを言っていることがわかった。それを借りてきて、やってみたら、うまくいった。

 というわけで、とにかく時間がかかった。くたびれた。代行でしょっちゅう来ている人はもう慣れていてなんとも思わないかもしれないが、私はサービス精神が乏しいお役所仕事にあきれた。運輸支局は初めて来た人が手続きのしかたでとまどうことがないように、ムダに時間を費やすことがないように、わかりやすい図解だとか、パソコンのタッチパネルなどでうまく案内・説明をするとか、総合窓口で適確な案内をするとか、サービス精神を持ってほしい。親切なお役人が少なくないようにも感じるが、仕事のシステムに問題があることは明白だ。民間に運輸支局のこうした仕事を任せたら、おそらくコストは何割か減り、一方で顧客満足度は高まること請け合いである。

 

 

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2006年11月23日 (木)

財政審の建議

 財政制度等審議会(財務省の審議機関)が「平成19年度予算の編成等に関する建議」を11月22日にまとめた。霞が関の中で、国の財政を預かる財務省しか財政健全化を唱える官庁はない。50数ページにわたる建議は、カネを使う側の中央政府・地方自治体、および政治家に対して真剣に財政改革に取り組むよう訴えている。

 その主張は「戦後最長の景気回復局面が続いているにもかかわらず、毎年財政赤字を発生させている現状は、財政運営の常軌を逸している事態であり、現世代の責任において、その解消を図っていくことが必要」というところに集約されている。

 これまで、政府は2011年度におけるプライマリーバランス(PB)の回復をまず達成しようということでやってきた。しかし、建議はEU加盟国が中期的に達成すべき目標として掲げている「PBの達成+利払費も税収等で賄う」を紹介し、日本もこのレベルをめざして財政改革を推進すべきだと訴えている。そうなって、やっと債務残高が増加しない状態になる。

 4年9ヵ月のいざなぎ景気(1965年~1970年)を期間の長さでは抜いた現在の景気拡大。税収が増えているので、歳出拡大要求や減税要求が政治家や経済団体から相次いでいる。その中にはもっともな要求もある。それは受け入れるべきだろう。しかし、いまの景気拡大が戦後最長といっても、国債の大量発行で国の債務残高が増え続けている深刻な状況にあることを片時も忘れては困る。景気のいいときにしか思い切った歳出削減や債務削減はやれないのだ。

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2006年11月22日 (水)

国債の各種手数料引き下げ

 財務省が11月17日に開いた国債市場特別参加者会合(第13回)の議事録要旨によると、同省は国債の償還、利払いおよび起債に関する手数料を大幅に引き下げる方針を表明した。

 それによると、償還手数料は元本額の0.0006%と、現行の150分の1程度に引き下げる。利払手数料は現在、利払額の0.18%としているのを、やはり元本額の0.0006%にする。これは現行の2分の1程度にあたる。日銀のコンピュータシステムの変更が必要になるし、市場価格への影響もあるので、2年程度後(早ければ08年10月)を目途に実施するという。

 起債等手数料は07年度から大幅に引き下げる。また、金融機関が自ら保有する国債の償還、利払いは日銀口座上でのやりとりなので手数料は払わないことにするという。

 これによって、いくら国の費用負担が少なくなるか、はわからないが、国が銀行や証券会社に支払う手数料が高すぎるのを是正することは歓迎だ。

 財務省がこうした手数料の引き下げに踏み切るのは、ことし5月に成立した「簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律」、つまり行政改革推進法に基づく。同法は政策金融改革、独立行政法人の見直し、特別会計改革、総人件費改革、資産及び債務に関する改革を目的にしている。その中の特別会計改革は「事務及び事業の合理化及び効率化を図る」ことにしている。これが国債手数料の引き下げにつながっている。

 法律ができるまでは、メディアも大きく取り上げるが、それでも、細かいところまでは取り上げない。しかし、法のねらい通り、改革が一つずつ実現していくことはうれしい。同じ特別会計改革において、「道路整備特別会計、治水特別会計、港湾整備特別会計、空港整備特別会計、都市開発資金融資特別会計を平成20年度を目途に統合すること」とか、「特定財源についても見直しの方向性を定める」と規定している。こっちについても、同法がめざす財政の健全化に寄与する取り組みをしてもらいたい。

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2006年11月19日 (日)

『安定成長期の財政金融政策』を読んで

 財務省財務総合政策研究所編『安定成長期の財政金融政策ーオイルショックからバブルまで』(2006年3月刊)を財政に関する記述中心に拾い読みした。国債残高が増えてきた経緯とともに、悪化した財政を改善しようとする取り組みの歴史が淡々と記されている。

 感想の①:1981年に「増税なき財政再建」を掲げたり、1979年に「1984年を目標に特例公債依存から脱却する」ことを目指したり、と、財政健全化への努力が行われた。だが、一時的には成果があったものの、国の債務増加トレンドは変わらなかった。

 感想の②:景気がちょっと悪くなると、すぐ財政出動するというパターンの繰り返しである。要するに、政治家も官僚も、国民の賛同を得にくい増税はせず、他方で、経済の勢いが落ちると、補正予算などを組む。国民に媚びたというか、国民を甘やかした政治を続けた。唯一の例外が消費税である。

 感想の③:郵便貯金や厚生年金などのカネを集中して受け入れる資金運用部が景気対策などのカネを供給するようになった。財政悪化は、一般会計を見ているだけではわからない。ただ、こうした事態は、国民が消費に充てず貯めこむから、代わって、そのカネを政府が大盤振る舞いしたという面もある。

 感想の④:赤字財政なので、政府は国家予算を編成する都度、歳出の抑制を真っ先に言っていた。それは確かだ。しかし、今日にいたるも、ムダな歳出はなくならない。

 どうしてか。そもそも、予算案をつくる各省庁、つまり当事者に言ったって、当事者はムダだとは思っていない。パーキンソンの法則ではないが、人(役人)を抱えていれば、何か仕事(予算を伴う)をしようとする。初めに支出(歳出)ありき、になる。

 国の統計をつくる作業にたずさわる国・地方の人たちの約4分の3が農業統計の担当だとか。農業はGDPの2%に過ぎないのに。第三次産業が圧倒的に大きなウエートを持つ時代になっているのに、第二次大戦直後の経済状況をもとにした官僚機構の資源配分がいまにいたるも基本的には変わらないのである。日本の官僚制度に関わる改革がいかに難しいか、を示す典型だ。

 

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2006年11月17日 (金)

人事院の退職給付官民比較

 民間の退職金プラス企業年金と、国家公務員の退職金プラス“上乗せ年金”(職域加算)と比べたら、どっちが多いか。人事院が11月16日に調査結果とそれについての見解を塩崎官房長官に提出した。それによると、民間は2980.2万円、公務員は2960.1万円と民間>公務員だったとのこと。“上乗せ年金”を廃止(10年に予定されている)すると、公務員は民間よりも241.6万円も少なくなるという。

 一方、主要先進国を調査したら、公務員の退職給付は民間よりも充実した年金水準になっているという。そこで、人事院は日本の公務員の退職給付についても、民間レベルに追い付くだけでなく主要先進国同様にもっと充実すべきだとの見解を示している。

 人事院も国家公務員だから、客観性を保てというのは無理かもしれない。しかし、この調査および見解はちょっとひどすぎる。普通、退職給付といったら、退職金と年金の合計を比較することだが、この調査はそうではない。民間の厚生年金と、公務員の共済年金とでは、明らかに共済年金のほうが給付額が多い。それを含めないで比較するのは公正ではない。

 本来、比較すべきは生涯所得だと思う。賃金や年収はどうかといえば、公務員のほうが民間平均よりやや高い。それは庶民の実感でもある。(ついでに言えば、雇用リスクのある民間と雇用リスクのない公務員とが同じ賃金レベルであるべきだという考え方そのものがおかしい。リスクのない日本の公務員は安くて当然ではないか。)。そして、退職給付(退職金プラス年金)も民間とほぼ同じ水準でもらっている。したがって、生涯所得でも、公務員のほうが多いと推定できるが、それを人事院はきちんと調べて公表すべきである。

 ところで、天下りでうまい汁を吸える公務員はかなりの割合にのぼる。そうした定年後の所得についても人事院は官民の両方について実態調査をすべきではないか。また、天下りして共済年金から厚生年金に移ると、共済年金の給付額は減額されない。民間企業で定年延長で働く人と比べ、官→民に移った元公務員は有利だ。

 要するに、この国の諸制度はなにかと官に有利にできているのである。人事院はまさに公務員そのものだから、自分たちに不利なことはやりたがらない点で他省庁と全く同じである。

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2006年11月12日 (日)

会計検査院の報告から見える官僚のひどさ

 会計検査院が国の05年度決算検査報告を11月10日に発表した。全文に目を通したわけではないが、国のカネの使い方に相当、問題があることは歴然としている。これに先立って、10月に発表された、社会保障支出の現状に関する会計検査の結果や、特別会計の状況に関する会計監査の結果などの発表も、同様に、カネの使い方に相当、問題があることを示している。公務員(といっても全員ではないが)の意識そのものに問題があるように思われる。

 06年度決算の検査報告によれば、指摘された473件の指摘金額は453億円に達する。不当事項のうち、支出に関するものが384件、105億円。不当事項というのは不正行為、予算管理、補助金等に関わるもので、厚生労働省だけで26件に達する。国民の納める税金等をいい加減に使ったり、懐に入れたりする役人が多いのは許せない。

 国の特別会計は所管官庁の長が歳入も歳出も決める。しかも独自に公債を発行したり、借り入れしたりすることができる特別会計がたくさんあるなど、国会のチェックがほとんどない。それに加え、透明性に欠ける。したがって、国民には財源、歳出などの実態がまるでわからないようになっている。

 会計検査院報告によると、04年度の特別会計(合計)の繰越額は11.8兆円、不用額は10.5兆円もある。また、決算剰余金は43.4兆円に達する(06年度一般会計予算の規模の2分の1余にあたる)。これは歳入419.3兆円の10.4%にもなる。しかも、この決算剰余金は国債の償還などに充てるのではなく、特別会計の次年度歳入に繰り入れたり、積立金等に積み立てたりしている。一般会計への繰り入れはわずか1.4兆円にとどまる。

 個々の官庁が管理する特別会計にいったん入ったカネは、例え余ったとしても、一般会計などにはほとんど繰り入れず、特別会計の中の積立金などで所管官庁が握っている実態が明白である。役所は権限でもカネでも一旦握ったら絶対に離そうとしない習性を映している。いま、道路特定財源を国土交通省が必死に守ろうとしているのも、同じことだ。

 会計検査院によれば、31ある特別会計のほとんどが昭和40年代までに設置されたもので、30年以上たっている。賞味期限はとっくに切れている。だが、官僚の既得権益擁護の姿勢は強く、制度を一度つくったら、なかなか変わらないことがよく表れている。

 特別会計の会計検査報告書によると、一般会計と特別会計とを合計し、重複を差し引いた純計ベースの国全体の04年度財政規模は歳入が279兆円、歳出が233兆円になる。そのうち、特別会計の収納済み歳入額は193兆円(歳入の69.2%にあたる)、支出済み歳出額は197兆円(歳出の84.5%にあたる)に達する。特別会計はモンスターになっているのだ。それなのに、国民には特別会計の実態は隠されている。報告書で会計検査院が改革を求めているのは当然のことである。

 会計検査院は正確性、合規性、経済性・効率性、有効性、契約の競争性・透明性といった点に重点を置いて会計検査を実施するという。会計検査院も政府の一員なので、同じ役所仲間に甘い面がないわけではないが、国民がなかなか知りえない税金の使い方の問題点を追及してくれる。財政再建のためにも、会計検査院に期待するところ大だ。

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2006年11月 9日 (木)

与謝野自民党税調会長の辞任

 自民党税制調査会長の与謝野馨氏が健康上の理由で辞任した。氏についてはしばしば思い出す会見がある。

 05年2月末、自民党の財政構造研究会が発足した日、同党の与謝野馨政調会長の会見を聞いた。「橋本内閣当時、梶山官房長官から副長官だった私に、財政再建をやろうという話があった。それで財政構造改革に取り組んだ。財政改革法は画期的だったが、山一證券事件などで放棄した。以後、財政再建を自民党は避けに避けて通ってきた。しかし、このままでは、後の世代に対して無責任なことになる。国民の前できちんと議論し、国民に理解を得ねばならない。」と語った。研究会を設けたのは、「昨年(04年)、青木さん(自民党参議院議員会長)から、3年間選挙がない、(財政再建に取り組むのに)滅多にないチャンスだ、と言われた。いま、財政再建に取り組むいい時期だ。」からと。

 「柳沢政調会長代理と一緒にやる。メンバーは4、5年生議員のみ。例外的に3年生議員を認める。将来に責任ある人のみ、20人ぐらいに限定。政策形成に結び付かなければ意味がない。私も一生懸命やる。ここで考えたことを実際の政策に反映させねばならない。」とも語った。

 経済財政諮問会議について聞かれると、氏は「小泉首相が上手に使っているのは認める。しかし、霞が関という膨大なシンクタンクを動かさないと、きちんとした仕事はできない。諮問会議は橋本行革のときにできた。それなりに存在していくだろう。私は見たことも行ったこともない。」と答えた。

 それから半年ほどのち、与謝野氏は内閣改造で経済財政諮問会議を担当する大臣に就任した。「見たことも行ったこともない」と竹中経済財政担当大臣のやりかたに批判を込めた言い方をしたポストの後継者になったわけだ。

 前任の竹中氏が霞が関の官僚機構をほとんど無視したのと違って、与謝野氏は霞が関、自民党との意思疎通を大事にした。小泉首相のもと、竹中氏は思い切った財政改革路線をめざしたが、与謝野氏は独走をきらい、自民党の政治家に相談し、納得してもらう形で内閣と与党の間の合意形成に努めた。「骨太の方針2006」はそうしてできた。

 そして、安倍内閣になって、与謝野氏は党税調会長になった。さて、新しいポストでどう動くのかと見ていたら、辞任とのこと。政治家だから(?)、その時々で言うこと、やることに必ずしも一貫性、整合性がない面もあるが、氏は政策通であり、財政再建を重要な課題であることを理解している数少ない自民党政治家である。

 新内閣は、来年の参議院選挙もあって、「成長なくして財政再建なし」一色になっている。当面の政策はそれでいいとしても、長期的にはそうはいかない。財政改革の問題点をきちんと理解している政治家は限られているから、与謝野氏にはこれまで以上に、国民のため、将来世代のために身を投げうってでも働いてもらいたい。

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2006年11月 7日 (火)

朝日新聞「ののちゃんの自由研究」

 「ののちゃん  国の借金が増えすぎて大変だって聞いたけど、本当?」。11月7日の朝日新聞は「ののちゃんの自由研究」で、「国の借金どう返す」という1ページをフルに使った読み物を掲載している。

 藤原先生が借金の大きさを話すと、ののちゃんは「でも私たちの周りの人はだれも困った顔してないよ。」という。先生は「そこで政府がやろうとしているのが「歳出削減」。つまり国がムダづかいをなくして借金がなるべく増えないようにする「ケチケチ作戦」ね。でも国がお金を出さなくなると、病院で払うお金が増えたり、新しい道路や橋がつくれなくなったりして、それも楽ではないの。」と話す。

 本文は、国の借金がどうして増えたのか。それにもかかわらず、多くの借金に困った様子はみられないのはなぜか。借金返済ができないと国民生活はどうなるのか。危機を招かないために、政府が示した歳出・歳入一体改革はどんな内容か。そうした記述になっている。

 そして、最後のところで、「歳出を減らすのも、増税するのも、国民にとっては厳しい道です。どちらもやめてしまえば一番楽ですが、そうすると子どもたちが大きくなった時に返さなければいけない借金が増えます。(それは)最も無責任な道といえるでしょう。」と指摘している。

 子ども向けの書き方だが、大人の読者が1人でも多く、この「ののちゃんの自由研究」を読んでほしい。

                                          

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2006年11月 4日 (土)

財政危機の意識はなぜ乏しいのか

 財政赤字の金額を時々刻々知らせる「リアルタイム財政赤字カウンター」によれば、日本国の長期債務残高(地方財政を含む)は今日現在1094兆円(四捨五入)。国民1人当たり875万円(同)。普通国債残高は630兆円(同)に達する。

 日本の市場金利は歴史上かつてない低水準にある。この異常事態はいずれ是正されるはずだ。国・地方の債務があまりに大きいから、もし金利が1%上がると、それだけで債務の利息支払額は11兆円近く増える。つまり、それを支払うため、税金を同額上げるとすると、消費税の場合、4~5%の引き上げに相当する。

 それほどに大きな借金を抱えているのに、国民には財政危機なんて意識はまるでない。財務省などがPRしても、危機意識は国民に浸透しない。どうしてか。雑誌『経済セミナー』11月号の連載「財政再建の選択肢⑧ なぜ危機意識が乏しいのか」(矢野康治)は、この問題を説明している。

 「わが国は、財政赤字が非常に大きく、それだけ負担の先送りが大きく、その分現世代の(現実の)租税負担率が低くて済んでおり、それがために痛みが感じられ難く、財政危機意識が希薄になってしまっているのです。」。皮肉なことだが、「もっと歳出に見合うように租税負担率や国民負担率が高ければ、財政についての国民的な意識も高まっているはずです。」、「こうした構造的な問題に、金利が上がってしまってからではなく、理性と知性をもって気づくべきです。」という。

 「財政危機意識が高まらない最大の理由は、金利が低位安定していることでしょう。」。期間10年の長期国債の金利は先進諸国はおおむね4~5%で推移しているが、日本だけは1%台で推移している。これは「法人部門が有利子債務回避の動きを続けてきたことと、日銀や市中金融機関が大量に国債購入を膨らませてきたこと、郵貯・簡保などの政府部門が大量の国債を吸収してきたことといった特異な好条件が重なったため」としている。日銀のゼロ金利政策なども付け加える必要があろう。「しかし、これらの好条件はいずれも長続きしません。」。

 「財政危機意識が高まらない理由の一つに、国債の元利払い費(国債費)が増えずに済んでいるということがあげられる」。国債を借り換えると、「10年債の場合、10年前の利回りはだいたい3%台でしたから、1%台の利回りの借換債を発行することで、金利負担の軽減が発生」する。しかし、あと2年もすれば、借り換えによる金利軽減効果はなくなるという。

 もう一つ、財政危機が高まらない根本的な原因は「地方財政の自立性・独立性の乏しさ」だという。地方自治体が仮に歳出削減に努めても、その分、地方交付税交付金を減らされてしまう。「地方税が国会で全国一律的に決められている」ので、地方歳出を削減して地方税を下げさせようという住民のモチベーションが働かない。いまの仕組みでは、住民はバラマキ政治を歓迎する。なぜなら、そのツケは交付金などを通じて国の財政に回り、その地域の住民の直接の負担にはならないということのようだ。

 著者の矢野氏は財務省の主計局調査課長である。ここで述べていることはもっともである。ただ、地方交付税交付金や、ムダの多い補助金付きの公共事業など、歳出の中身をゼロベースで見直す政府自体の努力が欠けていることにも言及すべきだと思う。既得権益は健在だ。それでは「百の説法、屁一つ」で、危機意識はすぐ、あきらめや絶望に変わる。

 論旨からは、財政危機を国民の多くが認識するようになるためには、危機が表面化するしかないのか、という悲観的な見方にもとらわれる。横道にそれるようだが、地球温暖化の危機が迫っているのに、世界の人々はそれを感じておらず、二酸化炭素の排出量は増えるばかり。人々が危機を意識するのは、破局的な現象が起きてからではないか、と悲観的な見方をしてしまう。それと財政危機とは似ている。〔もちろん、地球温暖化のほうが人類の存続に関わるから危機のレベルは異なるが〕

 やはり、財政再建のため、国民のいやがることであっても、国のため、将来世代のために行動するという政治家が多く出てくることを願うしかない。一方、民間サイドで財政改革の推進を要求し、政治の取り組みを監視する活動組織が必要である。8月20日のブログ「財政改革推進国民会議(仮称)を」で述べたことを改めて主張したい。 

 

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2006年11月 2日 (木)

必修科目の履修漏れ

 世界史など高校の必修科目を履修しないで卒業する高校生の問題が連日、大きく報道されている。政府・与党がまとめた対策で一応、決着するが、それで一件落着になってはまずい。義務教育ではないが、同世代のほとんどが入る高校教育は、そもそも何を目的とするのか、その目的を達成する仕組みになっているか、などを明確にする必要がある。そして、現状を徹底的に調査、分析して、問題点を洗い出すことが求められる。 

 メディアは「履修漏れ」という表現を用いているが、意識的にはずしているのだから、「履修はずし」とでもいうほうが適切だろう。あるいは「履修のがれ」とでもいったらいいのか。履修はずしをした学校の教師や当該地域の教育委員会は、大学受験でよい成果をあげるためにはやむをえないなどの言い訳で正当化しようとする。「仕方がない」。生徒や父母を含め、そういう受け止め方が一般的だったのだろう。

 とはいえ、何年ものあいだ、全国の高校の約1割で行なわれていたのに、それがずっと社会的な問題にならなかったところに、この社会の不健全さというか、ひずみを感じる。ルールを杓子定規に守っていては世の中うまく回らないというのも、一面の真実である。しかし、自分の都合のいいようにルールをねじまげるのも行き過ぎだし、それを是認するのも異常な社会だ。いまの社会は正直者が馬鹿をみる事例に事欠かない。それに役所の無責任さもあきれるほどだ。これではいけない。

 そうした事態が起きるのは、どういう目的を実現するために、どういうルールを設けるのか、といった基本的な問題意識が関係する人々(ステークホルダー)に正しく伝わっていないせいでもある。為政者の責任は重大だ。

 少子化でも、相変わらず一流大学→一流就職先などという固定観念に基づく受験競争が社会を支配している。他方で、マークス寿子著『日本はなぜここまで壊れたのか』にも書かれているように、学ぼうという気持ちのない大学生がたくさんいる。家庭教育も義務教育も問題だらけだが、高等教育も多くの識者が指摘する通り惨憺たる状態である。

 履修はずしはそうした問題だらけの氷山の一角にすぎない。かつて英国のブレア首相は就任したとき、「一に教育、二に教育、三、四がなくて五に教育」と言明し、教育改革に最も重点を置いた。日本が先進国として生き続ける基礎も同様に教育だが、そこが根底から崩壊しつつあることを政治家、官僚は知らなさすぎる。

 それは、教育基本法を改正すれば解決するような単純な話ではない。総合的な教育再生を図るのは国会の仕事である。教育再生会議だけでなく、与野党が一体になって実態把握と理念の再構築に基づいて再生プランを練り上げるべきだ。そして、地域は地域で、教育の底上げを図る努力が望まれる。

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2006年11月 1日 (水)

「道具千手観音像」を拝観

 東京・新宿のパークタワーで開催されている「道具寺道具村建立縁起展」を見てきた。新聞の写真で見た「道具千手観音像」がとても魅力的だったので、実物を拝んでみたかったのである。それに、高名なインダストリアル・デザイナー、栄久庵憲司氏が道具寺、道具村などの構想に基づいてつくり、観音さまの16本の手は、さまざまな道具を持っているというのにも興味をそそられたからである。

 像本体は古色仕上げだが、道具がまばゆいばかりの金色。微笑みもすばらしい。とても素敵な観音さまである。私たちが奈良や京都などで拝観する国宝・重文などの仏像も、生まれたてのときは、さぞかし魅力的だったろうと連想した。

 日本はものづくりを得意とする。いま、日本経済が活気を取り戻しているのも、ものづくりの基本に立ち返りつつあるからだ。とはいえ、ものづくりをめぐる情勢は様変わりした。最大の課題は地球温暖化などの環境問題である。消費・利用のサイドではまだ環境問題への理解や取り組みがほとんどされていない。供給サイドのものづくりのほうが危機意識を持ち出したところだ。

 道具寺道具村の構想が生まれたのは、そうした時代背景があるからだろう。人間と道具が共生する未来をめざす栄久庵氏の構想は並々ならぬものがある。

 にもかかわらず、私は、氏が「もの」にこだわるところにいささか違和感を抱く。これまでの資源・エネルギーを大量に消費する「もの」中心の文明に終止符を打ち、今後は、もの離れし、心の豊かさに価値を置くライフスタイルへと移行することが求められている。この時代転換はものづくりにこだわっていては達成されないのではないか。

 デザインはものづくりと裏表の関係にあるため、デザイナーである氏はものづくりを肯定したところから発想している。しかし、そのこと自体を否定してみるという思考実験も必要だと思う。

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