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2008年5月30日 (金)

アフリカの人々にとっての幸せとは

 5月28日から第4回アフリカ開発会議(TICAD Ⅳ)が横浜で開かれている。アフリカには高い経済成長をとげる国もあり、福田首相は開会式で「我々はいま『アフリカ成長の世紀』という新しいページを開こうとしている」と演説した。この会議のスポンサーである日本政府は、アフリカの経済発展や資源確保を念頭に、政府開発援助や民間投資の拡大をぶち上げた。

 いまグローバル化を背景に、中国やインドなどが先進国に追い付こうと急ピッチで経済発展しているように、アフリカ諸国も、同様に先進国型の経済成長をめざしているようにみえる。しかし、それで本当にいいのだろうか。ビル・マッキベン著、大槻敦子訳の『ディープエコノミー』(08年5月刊、英治出版)を読むと、そんな疑問にとらわれる。

 1989年に『自然の終焉』を書いたマッキベンは、地球温暖化の危機を知り、経済成長を追い求める人間の自然破壊が、いずれは人類の生存を危うくすることを指摘した。新著の『ディープエコノミー』は、「おわりに」の中で、「経済成長が今なお私たちの経済にとって明らかに必要なゴールだという深く根付いた考えを揺るがすことに本書が役立てば嬉しい」と述べているように、地域社会、地域経済を活性化し、ご近所のつながりを深めることが幸せをもたらすと主張している。

 経済発展をとげた米国などでは、「私たちはもはや互いを必要としなくなってしまった。十分な金さえあれば、周囲の人に頼らなくても済むようになった。それは利益であると同時に、少なくとも損失である」。いまの日本の社会もまさにこの状態である。豊かな国であるはずの日本で、幸福とはほど遠い出来事が連日、新聞に報じられている。

 マッキベンの新著は「自分が他の人々にとって大切だと知ることは、いくら金を出しても買うことのできない一種の安心感である」と述べている。経済成長を追い求める道とは別のもう1つの道を同書は提示している。日本における地方分権改革のねらいとつながるところがあると思う。

 TICAD Ⅳで主催国の日本は浮き浮きして、参加国に対し、資源エネルギーを大量に消費し、GDPを大きくする経済成長を後押しするための援助、助成策をやたら打ち出している。その一方で、7月のG8で、ポスト2012(ポスト京都)の中長期的な温暖化対策をとりまとめる役割を担っている。これは、どう見ても精神分裂症の様相を呈している。縦割り行政が幅をきかし、政治のリーダーシップが欠落しているのだ。

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2008年5月29日 (木)

丹羽・地方分権改革推進委員長の話から

 政府の地方分権改革推進委員会は第1次勧告の原案を作成したが、委員長を務めている丹羽宇一郎氏(伊藤忠商事取締役会長)は、地方分権を実現するのがいかに難しいかを5月27日の講演で披露した。以下、印象に残った部分を紹介する。

 地方分権で何がよくなるのかが住民に感じとりにくい。しかし、改革には国民の支持とトップのリーダーシップの2つが必要である。(トップというのは福田首相のことと理解した)

 分権改革に対し、官僚は必死に権益を守ろうとする。彼らは委員会の審議の場には、どんなことがあってもイエスと言わない覚悟でくる。昔の出征兵士のようなものだ。こうした官僚の反応は、いかに我々(委員会)が仕事をしているかの証左であり、私はそうした反応を喜んでいる。

 地方分権は必要ではなくて必然だ。それ以外になりようがない。大量生産は破綻し、多様なニーズと情報の時代になった。いままでの中央集権では、国は生存できない。このままだと、社会の反乱、住民の反乱が起きる。オバマの言う「チェンジ」を日本はまさに必要としている。痛みがあっても、将来に向かって一歩を踏み出すという情熱がないと無理だ。

 分権のめざすところは、正直者は損をしない社会にすることである。自立心を喪失させるような制度は改めねばならない。手を出せば、お金が出てくるような制度はいけない。その悪い例が農業だ。売れない→減産→コストアップ→売れない、という負のスパイラルは農業をつぶすためにやっているようなものだ。

 地方分権とは多様なニーズに応えるようにすること。ダイバーシティ(多様化)の時代である。行政も多様化せねばならない。

 分権改革は法律を何百本と変えないと動かない。しかも、法ができても、省令等や条例も合わせて変えないと何も変わらない。いままでの改革は法律を作りっぱなしで終わっていたが、今回の分権改革は、どのように実行されたかを監視する。そして、実行されなかったら、問いただしていく。さもないと、何も変わらず、骨抜きになる。

 農政の大失敗を認めろと言っても農水省は認めない。日本で反収が一番高い作物はコメである。これで自給率が上がらなかったのはなぜか。負のスパイラルを進めたからだが、日本のコメは本当に高いのか。中国ではいいコメが1kg100円ぐらいだが、日本では15haの水田で1kg200円ぐらいのコストである。中国に輸出すると100元で売れる。それに、農水省はコメの消費を増やす努力をしたか。伊藤忠商事ではカロリーを減らしたおいしいコメパンをもうじき売ることになるかもしれない。

 農地の土壌は一旦放棄したら、簡単に元には戻らない。土壌を保全し、農業に人材を投入して自給力を増やすべきだ。米国4割、英国7割など、先進国では、国土のかなりの部分が農地である。日本はわずか12.6%にすぎない。もっと自立心を持つべきである。 

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2008年5月28日 (水)

同意人事はメンツの問題か

 かつて企業取材をしていた頃、私の担当分野ではなかったが、誰それが後任社長に内定、という記事が出たため、社長がむくれ、別の人を後任に選んだということがあった。後任人事をめぐって取材に目の色を変えるのは個人的には好きではないが、新聞に書かれたため、別の人に差し替えたというのもどうかと思ったことである。要するにメンツだけの話だ。

 それと同じようなことが政府の人事案で起きたのにはあきれる。政府が日銀審議委員に誰それを充て、預金保険機構理事長は再任という人事案を野党の民主党などに提示する前に報道されてしまった。それで、衆参の議員運営委員長が両氏の人事案提示を受け入れないと表明したという。事前にもれたのは感心しないが、だからといって、それを理由に両氏の人事案を引っ込めざるをえないというのは、単なるメンツだけのことではないか。国政をメンツでやられてはかなわない。

 要は、その人物がそのポストにふさわしいか否かである。それで判断すべきだ。議会にかけないうちにダメという烙印を押すのは、当該の人たちに対して失礼もいいところだ。

 さもないと、いろいろな思惑で変な人事になりかねない。あいつにはさせたくないということで、わざと候補者として名前を出すというようなことも起こりうる。企業では、そんなこともよくある。衆・参議院はもっと国民の現在および将来の幸せを確保するための方途を真剣に議論してほしい。

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2008年5月25日 (日)

地域の固定化された階層構造の改革

 冨山和彦氏(経営共創基盤代表取締役)の鋭い指摘を5月13日付けのブログに取り上げた。政府の「構造改革と日本経済」専門調査会第5回(4月25日)の議事要旨を読んでいたら、同氏のプレゼンテーションが載っている。関心のある方には議事要旨を読んでいただきたいが、産業再生機構として地方の企業再生に携わった同氏の地方の問題についての内容は傾聴に値する。

 いま地方が苦しくなっている状況は気の毒だが、「自己要因もはっきり言ってあると思った」という。地方というのは、「恐ろしく世襲の固定化された階級社会だ。均衡あるばらまきが均衡ある既得権階級を一つの社会階級として日本中につくり上げてきている」と指摘している。

 地方では、「上流階級というのは、ほぼ政治家も含めて世襲されているので、もうこれは固定化されているが、残念ながら平和で豊かでいい時代が続いたので、階級的には明らかに劣化している。逆に平民階級の優秀な人、要するに普通の平民の子どもに生まれた優秀な人は、みんな都会に流れていく」。したがって、家が貧乏で大学に行けなかった優秀な人が地方の企業に就職して番頭になるという「番頭モデルというのは、今、地方では成り立たない」。再生機構で扱った案件では、「ぴかっと光るような番頭がいたケースはほとんど皆無」だったという。

 「地域内格差、地域の中における固定化された階層構造をぶち壊さないと、優秀な人材は地方には絶対に行かない」、「大変ややこしいボス社会なので、あちこちに地雷が埋まっている」、「地域内の構造改革は絶対にやるべきだ」という。それと、地方分権によって、「地方の政府の仕事を面白くしないと、そこに多様性を持たせないと。面白くないところにいい人材が行かない」と語る。

 また、「国土の均衡ある発展というのはもう卒業して、国土の多様性とめり張りのある発展にモデル転換したほうがいい」と述べる。「地方の問題はお金の再配分より人の再配分だ。人のいないところにお金をばらまいても、砂漠に水をやるような話であって、むしろ既得権構造を再生産、再強化するだけ」、「どうやったら優秀な人が地方に行くのかということを軸に、私は政策を論じるべきだと思う」ともいう。

 格差には、反市場経済的要因から生み出される格差と、市場経済化がもたらす格差の二通りある。冨山氏は、前者には規制改革や公正競争行政の強化などの処方箋があるが、「恐らく政治的、社会的軋轢というコストを払わねばならない」という。一方、グローバルな競争に基づく相対コスト平準化の原理からくる賃金格差については、「これを仮に所得再配分で何とかしようということをやると、必ず成長力の低下と空洞化が起きる。そうすると、きっと日本経済は貧困化していく」と予言している。

 いまの日本が抱える深刻な問題点に対して、同氏の見解は重要なポイントを提起している。 

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公的年金基金運用体制のありかた

 経済財政諮問会議のグローバル化改革専門調査会(伊藤隆敏会長)が5月23日、「公的年金基金運用の改革に向けて」と題する第二次報告を公表した。副題は「世界の経済成長を生活の豊かさに」である。

 この報告書のうしろのほうに、市場運用をしている外国の公的年金基金がどんな資産に投資しているか、その構成割合を示すグラフ・表がある。その中からいくつか取り上げると、オランダの公務員総合年金基金は海外債券36%、海外株式35%、国内債券7%、国内株式1%、その他21%。フランスの社会保障基金は海外株式53%、債券26%、国内株式9%、その他12%。カナダの所得比例年金は海外株式33%、債券25%、国内株式24%、その他17%。ノルウェーの政府年金基金-グローバルは海外債券59%、海外株式41%。

 これらの年金の平均収益率は7%前後~10%台である。これに対し、日本はどうか。国民年金・厚生年金保険は平均収益率(直近5年)が3.5%と半分以下である。運用資産の構成は国内債券64%、国内株式17%、海外株式11%、海外債券8%である。ほかの国と違うのは、国内資産のウエートが大きいこと、株式の割合が低いことなどの点だ。成長率の高い国に投資するほうが大きなリターンを得られる可能性が強いのに、低成長、低金利の日本の有価証券を主体にしているのである。これでは150兆円もの巨額の運用資産を抱えている国民年金・厚生年金保険の加入者は浮かばれない。

 政府が財政投融資などの特別会計に年金積立金を注ぎ込む仕組みを長年、続けてきたため、年金を預かる厚生労働省は資金の運用なんてことは真面目に考えてこなかった。それどころか、自分たちの利権として、せっせと積立金を流用してきた。というわけで、リスクとリターンの関係をきちんと踏まえた最適の運用とはほど遠い状態にある。

 西欧の国々並みに運用成果が上がれば、年金の保険料率を引き下げるとか、年金給付額を増やすということが可能になるはずだ。今回の第二次報告は、そのための改革を提案している。すなわち、政府が中期計画で運用の基本的枠組みをガチガチにしばってしまう現在の硬直的な運用体制を改め、機動的な運用が可能になるようにすること、国際的に通用する人材を雇用できるようにすること、150兆円を分割してベビーファンドをつくり、それぞれ別々に運用可能にすること、などだ。

 日本では相変わらず預貯金が一番、安心だという人が多い。しかし、日本経済の成長率は低く、財政危機だし、少子高齢化が進む。日本国内での資金運用をめぐる環境はきびしくなる一方だ。それにインフレのおそれもなしとしない。したがって、年金を含め、資金の運用については、もっと世界に目を向けるほうがいい。経済オンチの厚生労働省に年金を任せておくのは危険きわまりない。

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2008年5月24日 (土)

QCサークル活動考

 1980年代前半がQCサークル活動の全盛期だったように思う。大企業の工場を見学すると、必ずいくつものQCサークルが、それぞれの活動の内容を大きな紙に書いて壁に貼っていた。企業の中での発表大会や日本科学技術連盟主催の全国大会は熱気にあふれていた。銀行などのサービス業でも、QCサークルが次々に誕生した。日本製品の品質の良さが欧米の脅威となった背景には、こうした事情があった。

 しかし、その熱気は1990年代に急速に失せた。それだけに、トヨタ自動車が勤務時間外のQCサークルの活動に、残業代を6月から全部払う方針を決めたという新聞記事を読んで、ほう、まだ結構、あちこちで続いているのだなと正直言って驚いた。

 QCサークルの活動は、現場での統計的手法を用いた品質管理の小集団活動である。しかし、末端の従業員によるQCサークルの活動が衰えたのは、会社にとって、経営全体の品質改善を求められるTQC(全社的品質管理)のほうが重要になったからだ。QCサークルはボトムアップの活動だが、TQC(いまはTQMという)は経営トップが下す全社的方針をブレークダウンして実践するという全く逆の活動なのである。

 また、日本の競争力を支える高品質に対抗すべく、米国は審査基準をみえる化した表彰制度を創設し、欧州はISO9000(1987年に誕生)を設けた。また、日本のTQCを、欧米はTQM(全社的品質マネジメント)という形でとらえた。世界的にトップダウンの経営が支配的になり、自動化で末端の従業員が工夫できる余地も少なくなったから、QCサークル活動の存在価値はかつてとは比べものにならないぐらいに下がっているように思う。

 しかし、末端の従業員が同僚と一緒に仕事の改善方法を考え、実行するのは、その内容もさることながら、仕事への意欲、職場におけるコミュニケーション、愛社心などの向上にプラスだ。自動化が進展し、労働密度も上がっている今日、従業員の働き甲斐を確保するのにも役立とう。そう考えれば、ものづくりの現場においてQCサークル活動が残っているのは会社にとって依然、大きな意味があるとも言えよう。

 ただ、それをかつてのように自主的な取り組みだとして労働時間にカウントしないのは、終身雇用的な発想から抜け切れていない会社側の驕りであった。 

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2008年5月21日 (水)

納税者番号の導入に向けての動き

 5月20日の経済財政諮問会議は歳出・歳入一体改革をテーマの1つにし、税制改革も取り上げた。その中で、民間議員(4名)は議論すべき6つの論点を挙げたが、6つ目は「納税者番号の導入に向けて、社会保障番号との関係の整理等を含め具体的な検討を進める」というものだった。

 大田弘子経済財政担当大臣によると、民間議員から「納税者番号の導入が信頼を獲得するためには不可欠であるし、税の公平・公正にも不可欠。電子政府の工程表を作ろうとしているが、あわせて納税者番号も工程表をつくって取り組むべき」という意見があったという。同じく民間議員から「納税者番号も過去いろいろな経緯はあるが、それにこだわらず導入すべき」との意見もあったとのことだ。

 財務省などの資料によると、先進国の多くが納税者番号の制度を持っている。社会保障番号を基本にしている国、住民登録番号を基本にしている国、税務番号を基本にしている国、とさまざまだが、大体は税務と社会保険と年金に共通して使っている。一方で、英国、ドイツ、フランスには納税者番号制度がない。

 日本では、セキュリティの面や、プライバシー保護について不安があるとの見方から、納税者番号制度の導入についての積極的な支持はほとんどない。政府が相当のカネを投じて導入した住民票コードの制度にしても、全く機能していない。

 ただ、統一的な番号が使われていたら、所得の把握がしやすくなるので、クロヨンなどと言われるような課税の極端な不公平などは多少なりとも是正されるだろう。また、各種の社会保障制度とリンクして、本当に助けを必要としている人たちに支援の手をさしのべやすくなるだろう。それよりも何よりも行政経費を減らすことが可能になる。危機に瀕している日本財政にとっては、のどから手が出るほどに導入したいものだろうと思う。

 現実には、政府の望みは全くといっていいほど国民に相手にされていない。だが、メリット、デメリットを冷静に議論する土俵を常に用意しておくことは必要である。

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2008年5月20日 (火)

基礎年金を消費税で賄うと大幅な税率アップに

 政府の社会保障国民会議が5月19日に雇用・年金分科会を開催。基礎年金を全部、消費税でまかなうとした場合の税率アップの試算を提示した。2009年度から基礎年金保険料の徴収をやめて、消費税でそっくり調達するとしたら、2050年度までに必要な追加財源はいくらになり、消費税率の引き上げは何%になるかというもの。

 4通りの試算では、3.5%~12%までにアップ率が分かれる。現在の消費税率5%をもとに考えると、大変な上げ幅である。

 だが、現在の社会保険方式でも、約3分の1は税を投入しており、政府は09年度までに2分の1に引き上げる約束をしている。いわば、現行制度は保険方式と税方式の中間である。全額を税方式にすれば、保険料の未納問題や社会保険庁のような徴収のための機構・コストがほとんどなくなるというメリットがあることは確かだ。

 しかし、ことはそう単純ではない。第一に、年金だけを考えるのではなく、医療、介護などを含めた社会保障制度全体をどうするか、という観点を踏まえて議論することが必要である。医療にしても、介護にしても、やはり形のうえでは社会保険制度をとっている。それらの費用の増大をどうやってまかなうのかも年金同様、大きな問題である。最近は、医療を全額、税でみるべきだという主張も行われている。

 第二に問題になるのが、自助、共助、公助をどう考えるかである。何でも税金でやればよいという公助一本やりでは、努力とか、節約とかは不要となり、国民が皆、甘えてしまう。税にいくらでも頼ることになると、税率はどこまでも上がってしまう。そんな社会では活力もなくなる。

 人口が減っていき、若い世代に社会保障などで過度の負担がかかるようになれば、現役の人々のやる気を奪う。法人課税などで企業の負担が諸外国より重ければ、企業も日本から逃げ出す。その結果、国民経済のパイが小さくなり、社会保障制度も持続可能性を失う。その点、消費税は高齢者であろうと、消費すればかかる。社会保障の財源に消費税を充てるのは、現役世代への負荷を減らし、企業が活動しやすい環境づくりというねらいもある。

 しかし、消費税の増税となると、おそらく食品などの基礎的生活物資・サービスは税率を据え置くとか、低い税率にすべきだという批判勢力が出てくるに違いない。そして、いまの後期高齢者医療制度への批判のように、結局は若い世代に相当にしわ寄せする制度変更がなされる可能性が大きい。

 今回の試算はいまの政府が行なったものだが、これに対抗できる年金などの社会保障制度の改革案がシンクタンクなどから提示されることが望ましい。国民に適切な選択肢を提示して初めて、よりよい政策が導き出されるからである。そのためには、まず、政府が関係情報をすべて公開しなければならない。

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2008年5月19日 (月)

音に無神経?すぎる

 水木楊著『‥‥が、無くなる日』を読んでいたら、こんな文章に出会った。「加齢すると、ある種の音に弱くなるのではないか」。

 同書では、主人公がディスコでヒップ・ホップの音がどうにも耐えられなくなってきたのを描写したあとにそう書いている。そして、「電車に乗っている小学生の群れや、中学生の女子生徒の甲高い声が堪えられなくなり、車両を変えることがしばしばになってきている」とも書いている。

 私の場合、うるさくて堪えられないのは、駅前の商店通りなどで、携帯電話を売る店の前で、若い女性が拡声器を使っているときとか、ゲームセンターがドアを開けっ放しにして、店内の音を外に流しているときなどだ。街宣車がガンガン、音楽(?)を流したりしているときもそうである。野球場には足を向けないが、テレビでも、あのうるさい応援は聞きたくない。

 それと、スーパーなどで同じメロディーを一日中流しっ放しというのも神経がいらだつ。そして、もう1つ、聞いていて堪えられないのは、幼児が親から突き放され、必死にすがろうとして泣き続けるときだ。

 しかし、「ある種の音」に限られるのかどうかよくわからないが、うるさいと思うのが加齢のせいだとはいままで考えもしなかった。言われてみれば、そうした面もあるような気もする。だが、それを踏まえたうえで、なお、日本は音の暴力に甘い社会だと思う。ある外務省OBは、街宣車の騒音を許している日本はおかしい、外国ではありえないことだと言っていたが、賛成だ。

 近隣の店のことを考えても、拡声器でボリュームを上げるのは、はた迷惑もいいところだ。それに、朝から晩まで同じ音楽と宣伝文句を繰り返し聞かされるのは、拷問と同じである。お互い、近隣に配慮する商店街であれば、一体感もできて活性化もしやすいだろう。

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2008年5月18日 (日)

80兆円を4等分して考えると―

 5月3日のブログで与謝野馨衆議院議員(前内閣官房長官)の「割り勘」論を紹介した。政治家には国民にわかりやすく説明する能力が必要だが、5月16日(金)の記者会見で、同氏のその能力を改めて実感した。

 いまの政治は「迷路のように小さいところにどんどん入り込んでいる。政治は大きな柱の部分を論じなければならない」と言って、与謝野氏は柱となる4つの問題を取り上げた。その1つ目が財政再建である。

 これについて、同氏は「国の収入(税収)は約50兆円、支出は約80兆円。民主党は15.5兆円の支出カットができると言う。しかし、支出の80兆円を4等分すると、最初の20兆円は借金の利息(返済)に充てる。次の20兆円は地方(自治体)に渡す。これはいまでも少ないと地方から叱られる。そしてもう1つの20兆円は社会福祉に充てている。これは放っておくと、あっという間に増える。最後の20兆円が、公共事業、教育、自衛隊、公務員給与など、我々が関与している予算です」と言う。

 つまり、国の一般会計の歳出は、事実上4分の3は使途が決まっていて、国会で使途を議論できるのは、たったの20兆円しかないと説明する。なんともわかりやすい説明の仕方だと感心した。(民主党がわかりやすい反論をすることを期待する)

 その説明の前段階として、財政危機の実態について「国は550兆円もの借金がある。いま金利は1.5%前後だが、金利が1%上がれば、550兆円×0.01(=5.5兆円)、金利支払が増える」ということも言っていた。

 以上の話に対して、特別会計があるのに、それを無視しているではないかなど、与謝野氏の話に問題があるという批判は可能だ。しかし、国の財政がいかに危機的な状況にあるかということを国民に知ってもらうために、わかりやすくおおまかに説明するという点で、同氏はすぐれている。それに比べて、福田首相は説明責任能力(アカウンタビリティ)が無さ過ぎる。

 与謝野氏は財政再建のほかに、経済、資源エネルギー、環境の問題も取り上げていたが、経済については「まだ日本経済は一流だと思っているが、少しずつボロになっている」、「このままだと日本経済は劣化する。このままではいけないという認識を国民が共有する必要がある」とし、「日本の社会が貧しくなることを私は一番おそれる」と抽象的な表現だが、強い危機感を表明した。氏が日本の政治の現状を憂えるゆえんの1つである。

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2008年5月16日 (金)

いまも多い大阪市職員の処分者数

 サンケイ新聞のニュースによると、大阪市の職員の不正による処分者数は相変わらず多い。04年度(平成16年度)は6645人、05年度は2180人、06年度は321人、07年度は1382人、そして始まって間もない08年度はすでに1ヵ月半の間に132人だという。08年度は出退勤のタイムカードの不正記録で懲戒免職1人を含めて121人にのぼるそうだ。カラ残業、組合活動がらみ、飛鳥会事件、学歴詐称などが処分の理由である。

 04年度以降の合計で1万人を超す。市職員が約4万人だから、いかに処分者が多いかがわかる。

 大阪市が税金をどれほどムダづかいしてきたかは、吉冨有治著『大阪破産』(光文社、05年10月)に詳しい。ハコモノや第三セクターにカネを注ぎ込み、職員にはお手盛り手当などの極端な厚遇をして、財政を危機的状況まで追い込んだ。カラ残業など、職員の腐敗ぶりもひどかった。

 このため、市は06年2月に「市政改革マニフェスト」を発表し、「これまでの慣行、先例と決別し、行財政規模を現在の人口や税収に見合った「身の丈」サイズに改めるとともに‥‥」と改革の決意を表明した。マニフェストの改革がどこまで進んだかを情報公開しており、それを読む限り、改革は進んでいる。平松邦夫市長に代わって半年たったばかりなので、平松カラーはまだ感じられないが、処分者数をみると、職員の意識改革は日暮れて道遠しのようだ。

 中央省庁でも、社会保険庁や国土交通省などの腐敗ぶりをみると、個々の職員および組織の意識改革がどこまで進んだかと疑問に思う。大阪市もそうだが、市民がもっと批判の声をあげ、監視の目を強めることが大事だ。メディアの役割はきわめて大きい。

 『大阪破産』の著者は「大阪市の不正はなにも昨日今日の話ではないはずだ。もう何年も、10数年も前から行われていた不祥事のはず。むろん、多くは秘密裏に行われ、オモテに出ることはなかったろう。それでもウラの悪事を暴くのが本来のマスコミの仕事ではないのか。役所の発表資料を書き写すことだけが記者の仕事ではない」と書いている。

 マスメディアは、国の政治についても、地方自治体の行政・議会についても、本質的な問題をどんどん取り上げていかないと、存在価値が薄れる。特に新聞はいま読者が減っているだけに、市民の生活に直結した政治、行政に切り込む報道こそが新聞が生き残る道の1つであることを自覚すべきだろう。 

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2008年5月14日 (水)

高齢化を社会保障給付の面から見ると

 5月13日の財政制度等審議会のナントカ部会は数字(金額)面から社会保障制度の実態を示す資料を出している。膨大な資料のうち、一番、興味を抱いたのは、吉川洋東大教授のプレゼンテーションの中の「1人の生涯から見た社会保障給付の姿」という図である。生まれてから死ぬまでの生涯に、平均1人が毎年、どんな種類の給付をいくら受けるかが5年刻みで色分けしてある。

 生まれてから20歳過ぎまでは、児童手当、保育所・幼稚園、義務教育、高校、大学といろいろ給付がある。小学校以降、高校までは毎年、100万円前後の給付を受ける。そのほとんどが学校教育であり、わずかだが医療の給付がある。

 社会に出たあとは、60歳まで給付は非常に少ない。ただ、年齢が上がるにつれて、医療費が増えている。それでも、55~60歳では雇用保険を足して年間30万円程度である。

 しかし、60歳を過ぎると、老齢年金の給付が加わるので、60~65歳の給付年額は55~60歳に比べ2倍強に増える。そして、65~70歳は老齢年金がフルに給付されるうえに、医療費も多くなるし、介護保険の給付もあるので、給付額が年180万円ぐらいに達する。うち医療・介護の給付は年50万円程度である。

 70~75歳は年200万円ぐらいの給付である。年金が約130万円、医療・介護がおよそ70万円だ。

 そして、評判の悪い「後期高齢者」となると75~80歳で給付は年220万円ぐらいになる。そのうち、医療・介護が年90万円ほどである。80歳以上になると、さらに増えて年260万円ぐらいである。80歳以上の給付の内訳は、年金と医療・介護とがほぼ半々。すなわち、医療・介護の給付が年間130万円ぐらいということだ。

 以下は、この図を見ての感想。

 上記の金額は、介護サービスを受けない高齢者とか、医者にあまり行かない高齢者を含めての平均である。したがって、当然、中にはケタが違うほど巨額の医療・介護サービスを受けている人もいる。いずれにせよ、社会保障は世代間の助け合いの色彩が濃いから、こうしたデータを見る限り、少子高齢化によって現役世代の負担がどんどん重くなることは明白である。

 社会保障の給付金額は高齢化に伴い、今後も増え続ける。06年度89.8兆円だったのが、15年度には116兆円に達するという試算(厚生労働省)もある。では、そのカネをどうやって調達するかが最大の課題である。

 従来、医療・介護のムダをなくせという意見もあったが、最近は、医療危機ということで逆に医療にもっとカネをかけろという声が強い。医療費を効率化するために始まったばかりの後期高齢者医療制度についても修正すべきだという“バックスピン”が強いし、介護サービスにしても、サービス報酬を引き上げるべきだという要望が多い。

 だが、政府は08年度予算でも歳入の約3割を国債発行でまかなうほど借金に依存している。財政危機に瀕している。だから、増税か、医療・介護保険の保険料引き上げないし自己負担率引き上げか、という話になる。しかし、いまの政局では与野党とも、それらに触れたがらない。

 経済成長で税収増をという主張も一部にあるが、成長をはかるには、規制改革や法人税率の大幅引き下げなどが必要。しかし、それらを本気で実施する動きはみられない。

 また、世論調査からは、道路特定財源を一般財源にして、社会保障の充実に振り向けるべきだという国民が多いことがわかる。だが、与党も知事たちも、いまだに道路建設を優先しようとしている。

 このように、いまの日本は真剣に国の将来を考えるリーダーがほとんどいない。これでは、国の明るい展望はない。若い世代を絶望させるばかりだ。

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2008年5月13日 (火)

冨山和彦氏の鋭い指摘

 冨山和彦氏(経営共創基盤CEO)といえば、産業再生機構COOとして活躍した人である。新聞や雑誌でたまたま読んだ彼の発言は鋭い指摘が多い。

 5月12日付け日本経済新聞朝刊の「月曜経済観測」では、「人口減少時代の成長戦略」について語っている。国・地方自治体の膨大な借金の返済を考えると「若い世代は将来に希望を持ちにくい状況に追い込まれた」と言う。「より年齢層の高い既得権者によって、若い人たちがいかに意欲を喪失させられているか」、「中高年層から若年層へ、正規雇用者から非正規雇用者へ、既得権者から新規参入者へ、という方向で所得移転を推し進めるべきだが、なかなかそうなっていない」とも言う。

 人口減を克服し、経済成長を高めるには、「再配分政策を漫然と強めるのは禁じ手だ」。もしも、それをやったら、「高インフレや大失業に見舞われ、日本経済が“アルゼンチン”化するのは避けられない」。為政者は「将来世代の利害得失とグローバル経済の深化を常に念頭に置き、構造改革に取り組むべきだ」と言う。

 また、月刊誌『中央公論』6月号では、岩井克人東大教授との対談「株主主権論と日本的経営の二元論をいかに超えるか」で、「株式会社の最大の問題は、いかに経営者を選抜し、解任するかです」と語るとともに、「日本経済の活性化には、M&Aの人材再配置効果が最も大きいと思っているんです」と述べている。

 日本では年功序列や長期雇用制をとってきたため、社会的にみた人材の最適配分が行なわれにくい。「長期信用銀行など、大きな会社が潰れた後、元社員たちが多分野で活躍していますよね。それはつまり、優秀な人材が適切に配置されていなかったことを意味します」。

 これに対し、M&Aはコアの人材に辞めないで頑張ってもらうことができれば、「組織の形を保ったまま、人を流動化させる。日本人に向いた人材再配置の手段でしょう」と言う。

 そして、グリーンメーラーのような買収に対しては「企業価値の計算しかしたことがない人が急に経営に携わるなんて無理」だと批判している。「買収側にとっても、経営陣をきちんと提示するのは、ハードルが高いんですね」というのはその通りだと思う。

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2008年5月11日 (日)

安全保障をめぐる対立的な考え方

 最近、国の安全保障をめぐって、全く正反対の考え方を新聞で読んだ。現代の日本を象徴するような気もするので、紹介する。

 Ⅰ:5月8日付け朝日新聞朝刊の投書欄に「国民の権利を防衛費が剥奪」と題する、長崎市の主婦からの意見が載った。その趣旨は、『国は財政難だというが、本当にそうだろうか。憲法第9条で戦力を持たないと約束しているのに、5兆円近い膨大な税金を防衛費に使っている。憲法第25条の、健康で文化的な最低限度の生活を営む国民の権利を防衛費が剥奪しているのではないか。いまこそ税金をどこに使ってもらいたいか、主権者の声を政府に届けるときだ』というもの。

 Ⅱ:5月9日付け日本経済新聞朝刊「経済教室」に渡辺利夫拓殖大学学長が「新・海洋国家論 ②極東アジアの地政学」を書いている。それによると、中国、韓国、北朝鮮、そしてロシア、これら周辺諸国の日本に対する姿勢は「日清・日露戦争の開戦以前の極東アジア地政学を再現したかのごとくである」。例えば、「北朝鮮はミサイル連続発射実験の後、ついに核実験を敢行した。照準は日本なのであろう」と言う。こうした「周辺諸国の挑発的な行動に直面して、日本は国家概念覚醒の時代に入るかと思いきや、現実は逆の方向に進んでいるかにみえる」。

 すなわち、覇権国家概念も国民国家概念も希薄になった日本は、そのことを善いことだととらえている。だが、極東アジア地域は、権力政治と民族主義が汪溢し、日本はそれら周辺諸国の追撃の標的となりやすい。「極東アジアにおける日本とはそのような存在である」ことを日本人が自覚すべきだと指摘している。

 2つの論点は180度違う。国の防衛に税金を使うのはいけないという前者の意見は、暗黙のうちに、日本は平和であり、誰も日本を侵略したりすることはないことを前提としている。これに対し、後者の意見は、極東アジアは民族主義が強く、日本の価値や理念を共有しない国々ばかりだから、外交、防衛で国益をしっかり守らねばならないということのようだ。

 ところで、最近の世界情勢は、ウクライナとグルジアがNATOに加盟し、その結果、NATOとロシアとが最悪の場合、戦争になりかねないといわれる。それに、バルカン半島では国家が分裂・生成している。このように、世界はアフガニスタン、イラクだけでなく、軍事的な対立・抗争が起きている。そうした世界の動向を見、かつ日本周辺諸国の対日姿勢を見ている専門家からすれば、安全保障問題をもっと真剣に考えないと日本は危ういということになる。しかし、識者がしばしば指摘するように、ずっと日本の国内にいると、そうした危機感をまるで感じないのだろう。

 そうした認識のギャップを埋める努力が必要である。だが、そのための議論がまるで行なわれないのは問題だ。それは即、国民が財政健全化の道筋をどう考えるかにも影響する話だから。防衛予算を廃止・縮小→社会保障費増加ということでいけるのか、それとも、防衛予算は維持し、増税等→社会保障費増加という道をとるのか、という政策選択に直結するのである。

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2008年5月 9日 (金)

リフレッシュの旅、京都

 ゴールデンウイークの最後の日である6日に京都へ1泊の旅に出かけた。新幹線は往きも帰りもガラガラ。旅の目的は、京都国立博物館で「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai ―近代へ架ける橋―」を見ること。

 河鍋暁斎(若い頃は狂斎と名乗っていた)は浮世絵であれ、狩野派の伝統的な絵であれ、なんでもござれというすご腕で、実に多様な作品を残している。「大和美人図屏風」などのように、万人がすばらしいと称える絵も描く一方、酒の席で、思いつくままに描いた奔放な構図の絵もある。

 展示の小間を「2.冥界・異界、鬼神・幽霊」、「4.巨大画面への挑戦」、「5.森羅万象」、「6.笑いの絵画」、「7.物語、年中行事」などと8つに分けているように、実にさまざまな絵を描いている。だが、真面目とは正反対の、ふざけたり、茶化したり、パロディー化するのが彼の真骨頂のような気がした。権威とか伝統とか、あるいは常識とかに心底から、たてつきたくなるへそ曲がりは彼特有の精神構造だが、人々の価値観を変えた幕末から明治への変遷がそれを刺激し、拍車をかけたのではなかろうか。

 気に入った絵を紹介すると、「風神雷神図」で、タイコを1つ海に落とした雷神が釣り糸を垂れるようにしてタイコを拾い上げようとしているさまを描いている。そして、「鷹に追われる風神」は、追いかけてくる鷹から必死になって逃げる風神を描いている。どちらもユーモラスである。狂斎の頃に描いた「五月幟図」などでは、鯉を真正面から見た姿や、腹が上になった逆さの鯉を描いている。「新富座妖怪引幕」は縦4m近く、横20m弱ぐらいか、当時の人気役者の顔をうまく描いたものという。奇抜な発想に感心した。

 京都に行ってすばらしいと感嘆したのは東山の緑である。もう少し正確に言うと、緑と、椎の樹の花(クリーム色)との2色の織りなす模様に目を引き付けられた。永観堂に向かう道からの東山の景観はすばらしいとしか言いようがない(表現力の乏しさを痛感する)。金戒光明寺から会津藩殉難者之墓を経て行った真如堂のもみじは生気にあふれた緑で、これにも感動した。

 よいこともおかしなことも含め、エエッーと驚くことが旅の効用である。おかしなこともやっぱりあったが、今回は省略。

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2008年5月 5日 (月)

“政策市場”を支えるシンクタンクをどうやって生み出すか

 1ヵ月余り前に経済同友会の行政改革委員会が「マニフェスト時代の行政体制と“政策市場”の構築を」と題する提言を発表した。副題は「国民に透明な政策論争を示し、真の民主主義を実現する」というものである。“政策市場”を「民主主義の社会インフラ」と位置づけ、その構築に取り組むことが提言の1つの柱となっている。

 あまり見聞きしたことがない“政策市場”について、同友会は「多様な主体が政策を作成し、それが検証・分析され、かつ、代替案が作成されることを通じて、国民に複数の選択肢を示し、多数の政策案が多くの参加者による自由でオープンな議論により熟度の高い政策形成が行なわれる場」と定義している。言い換えれば、官僚機構を中心とした政策形成のやりかたでは多様化・複雑化した日本の課題に対応できなくなったから、政策の選択肢を提供し、かつ政策が適切であったか否かを検証する「民間非営利独立型の政策シンクタンク」を確立すべきだというわけだ。

 この提言は米国の“政策市場”をほぼ丸写ししたような内容であり、民主主義の成熟度において相当に遅れている日本が同じような仕組みを実現するのは容易でないという印象を抱く。それでも、日本が目指すマニフェスト政治にとって欠かせない要素である。

 そこで、提案したいのは、同友会が先頭に立って、NPOの政策シンクタンク設立に奔走することである。日本には、ビル・ゲイツなどのような、こうしたシンクタンクをつくれるほどの個人の大金持ちがなかなかいない。しかし、ビッグビジネスには、年間数千億円もの経常利益をあげるところがいくつもある。CSRの活動で相当のカネを使っている企業はたくさんあるし、広告宣伝費―その中には社会的にどうかと思う広告宣伝が散見される―に派手にカネを使っているところも実に多い。

 隗より始めよ。同友会は仲間の企業に政策シンクタンク設立を呼びかけたらどうか。提言するだけで、あとは野となれ山となれ、が当たり前では、無責任だと思う。

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2008年5月 3日 (土)

与謝野馨著『堂々たる政治』から

 与謝野馨衆議院議員といえば、普通のインタビューならメモなしで的確に答える。ガンから復帰してからは、ゆっくりと、かすれた声で話すようになったが、相変わらず、新聞記者の質問を巧みな比喩でさばいている。安倍内閣の最後の頃、官房長官をつとめた。

 同氏は自民党議員の中で、官僚出身でなく、派閥にも所属せず、それでいながら、見識があって、閣僚の経験もあるという珍しい人物。その与謝野氏が最近、新潮新書の『堂々たる政治』を出版した。その中に、「国家は割り勘である」という章がある。C型肝炎患者に対する補償をするというようなとき、政府が補償するというのは、すなわち国民が負担するということである。社会保障にせよ、何にせよ、政府の活動に必要なカネは、国民が税金や保険料で負担しなければならない。そのことを国民に理解してもらうために、同氏は割り勘という言葉を用いている。

 同氏は、財政再建のやりかたをめぐる「上げ潮路線」には批判的である。ことにインフレを起こすインフレターゲット論には強く反対している。また、まず財政のムダをなくせという主張に対しては、ムダはせいぜい年間数百億円であり、それをなくしても、800兆円といった国の借金の削減には遠く及ばないと批判している。現在の財政状況を踏まえると、社会保障費の増大と財政健全化とを両立させるには消費税の引き上げが必要だという与謝野氏は温かみのある改革を唱えている。小泉構造改革のアンチテーゼのつもりだろう。

 4月21日のブログで、「上げ潮派」高橋洋一氏の見解を紹介した。自民党の中は、経済成長を重視する上げ潮派と、財政再建を重視する派(「財政タカ派」とも言われる)とが政策路線をめぐって対立している。こうした両派の見解がそれぞれ書物になって、国民の目に触れるのはとてもいいことだ。それだけではない。福田内閣および自民党の支持率が下がり続け、政界再編の胎動が感じられるようになってきただけに、体系立った政策を政治家や政党が明確にすることは民主政治の中身を濃くする。

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2008年5月 2日 (金)

経済がわからない「厚生」官僚

 厚生労働省の旧労働省系幹部OBがいつぞや「旧厚生省の人はおよそ経済がわかっていない。厚労省内で議論すると、話にならない」とあきれていた。旧労働省の人にしても、私から見る限り、経済がわかっているとは思えないが、その人たちがひどいと言うのだから、想像を絶するひどさだと推察する。

 厚生行政は年金保険、医療(医療、薬事、医療保険)、介護保険、保育など多岐にわたる。しかも、少子高齢化や日本経済の活力低下などで、それらに対する国民のニーズが増大しているので、提供するサービスの経済規模も増える一方である。しかし、厚生官僚には、国民が必要とする社会保障サービスは、政府が直接に関与してサービスの内容を決定し、かつ提供すべきものであり、カネもうけをする民間にはなじまない仕事であるという意識が強い。

 その結果、財政支出が許す範囲でしか、社会保障関連のサービスを提供しない。そして、無い袖は振れない、と平然としている。また、縦割り行政も強固なので、他省と一体で問題を解決するということも起こらない。というわけで、例えば、保育所が足りないために働くことができない子育て中の母親をなくすという「新待機児童ゼロ作戦」にしても、国家財政の予算が将来、いつか増えるのを漫然と待っているだけである。

 国民がどんなサービスを求めているか、それを供給するために、官民がこぞって衆知を集めて、どんな仕組みをつくったら、コストおよび満足度の点で一番よいか。そうした思考が情けないことに、厚生官僚にはみられない。社会保険庁の仕事ぶりが典型的であるが、厚生行政は相変わらず、経済学の考えや、お客さま志向が欠如したままなのである。

 5月1日付け日本経済新聞朝刊の「経済教室」に、学習院大学の鈴木亘准教授が「待機児童対策、市場原理で」を書いている。認可保育所に入っている子供の家庭だけが運営費(約2兆6千億円)のおよそ4分の3の補助金をもらっているようなもの。バウチャー(利用券)を全部の家庭に与えるほうが、すべての保育希望に応えることができるうえに、財政負担も少なくてすむという。

 国の財政は社会保障関連を担う厚生行政の分が突出して大きい。そして、まだ年々ウエートが上がる。経済学や市場競争原理などを知らない厚生官僚に任せておくと、財政の健全化どころでなくなる。  

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