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2008年8月30日 (土)

国債の利子だけで10兆円超に

 国債を発行すれば、当然、利子を払う。09年度には、財務省の国債費概算要求によれば、「公債利子等」が10兆475億円と、初めて年度間支払額が10兆円の大台に乗せる。「借入金利子」、「財務省証券利子」を足した「利子割引料」全体では10兆6724億円に達する。08年度よりも1兆3318億円も増える。

 また、「利子割引料」と並ぶ項目の「債務償還費」は11兆7039億円で、08年度より9768億円多い。この「債務償還費」の大半を占める「公債費償還」も、10兆8195億円と初めて10兆円を突破する。08年度よりも8210億円増加する。

 もう1つの項目である「国債事務取扱費」654億円(08年度比301億円減)を含めた国債費全体の概算要求額は22兆4417億円(同2兆2785億円)にも及ぶ。

 国の税収が50兆円ちょっとにすぎない。それと比較して、国債の元利金支払いが22兆円に達するというのは驚きではないか。これは換言すれば、国債の発行残高がいかに大きいかということである。税金をはるかに上回る歳出を長い間続けてきた、つまり“麻薬”を打ち続けてきて、“麻薬”から離れられなくなった、そういう異常さを表している。

 小泉改革では、この“ヤク依存”から脱すべく、歳出カットを進めて国債発行を減らしてきたが、増税までは行かず。そして、いまや再び、“ヤク依存”を強めそうな気配。政治家や官僚は自分の財布から1円も出すわけではないから、歳出膨張も、国債増発も気にしない(財務省は立場上、財政健全化の姿勢)。財政再建を主張してきた与謝野馨経済財政担当相らもカラダを張って自らの意見を貫くわけでもなさそう。骨のある保守政治家が党・政府の要職にはとんと見当たりませんね。 

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総合経済対策で安心が実現できるか

 夏休みということで妙高・赤倉の温泉にのんびりつかっているうちに、与党・政府は「安心実現のための緊急総合対策」をまとめた。緊急対策ということでか、既存の政策およびそれに張り付いた予算を見直すことなく、単純に上乗せするという内容。既存の政策・予算を削減し、それを新規の政策に充てるという「ペイ・アズ・ユー・ゴー」の財政規律は無視された。国債取り引き市場などがこの日本政府の政策をどう受け止めるか、注目したい。

 福田首相は「できるだけ赤字国債の発行は避けたい」という意向のようだ。しかし、建設国債ならいいじゃないかとか、埋蔵金の取り崩しなら構わないとかということになりそう。それらは、国のふところ全体という観点に立つと、所詮は債務の増加である。危機的な経済状況では、対策として財政支出増が認められるが、いまの状況はそこまで深刻ではない。ムダを削ることで、対策費用を捻出できるのではないか。公明党が定額減税をごり押しし、自民党がそれを受け入れたことも合わせ、自民党の弱体ぶりが目に付く。

 最近の日本経済の苦境は、石油などのエネルギー、鉄鉱石などの鉱物資源、そして小麦など食糧の世界的な高騰によるところが大きい。それらをほとんど海外からの輸入に頼ってきたのが日本である。原燃料など一次産品を輸入し、加工して付加価値をつけて輸出するという日本モデルで経済発展を遂げてきたが、そのモデルの弱点を突かれたようにみえる。それが今日の経済不振の主因だろう。米国のサブプライム問題に端を発する世界的な金融不安定も無視できないが、日本としては、新しい経済発展のモデルを模索し、転換することが緊急の課題ではないか。

 そういう目でみると、産業、企業の構造転換を促す政策が緊急総合対策の柱になってしかるべきだ。例えば、日本資本による国際的な資源、エネルギー開発事業への直接投資や、国内での省資源・省エネ、代替資源・代替エネの推進、農林水産省的な農業政策の抜本的転換などが重要である。

 それ以上に大事なのは、これからの日本をどういう国、社会にしていくか、の基本的な方針、ビジョンを明確にし、それに基づいて緊急総合対策を打ち出すということである。一例を挙げれば、グローバルな経済競争に日本および日本人が生き残るためには、かつて英国のブレア首相が就任した時に強調していた「政策は一に教育、二に教育、‥‥」を真似ることだ。といっても、文部科学省に任せるのではなく、日本人が国内外ですぐれた働き手、市民となる基礎を身に付けさせるものでなければならない。

 今回の総合対策では、相も変わらず、縦割りの各省庁が出す政策なるものを並べ立てているのにはうんざりする。既得権を無視して、望ましい政策を立てる能力が与党には欠如している(野党にもあるのか疑わしいが)からだ。国民のほうも、政府に甘え、あれもこれもやってもらいたいという依存症から、いい加減に脱しようではないか。 

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2008年8月25日 (月)

北京五輪での日本の総括

 北京オリンピック終盤の女子ソフトボール優勝のおかげで、今回のオリンピックにおける日本選手の活躍ぶりが強く国民の印象に残ったようにも思える。しかし、本気で言ったのではないかもしれないが、出発前、「楽しんできます」とか言う日本選手が少なからずいた。何が何でも勝たねばならぬという必死の構えを感じさせる選手は限られていたのではないか。

 男子マラソンの結果をみて、中山竹通氏(元マラソン選手、現在、愛知製鋼陸上部監督)が日本経済新聞の25日付け朝刊で、「世界のトップは見ているところが違う。彼らは頂点、金メダルしか目指していない。なぜかというと、マラソンに生活がかかっているからだ」、「日本人は、そこそこ頑張って、そこそこの生活を長い間、続けられればいいと思っている。だから、守りのレースしかしない」、「いまの日本人はつらいことに耐えられない」と指摘している。

 中山氏の言葉は、ほかの種目を含め、今回、北京オリンピックに参加した日本選手の多くに当てはまるだろう。勝敗にはあまりこだわらず、「参加することに意義がある」という認識で出場した選手が日本代表にはいたような気がする。

 野球やサッカーなどでは、韓国の選手の勝利への執念がうかがえた。また、中国は開催地国であるためもあって、メダル獲得に目の色を変えているみたいだった。一方、日本代表でメダルを手にしたような選手は好きで好きでとことん頑張るところがすばらしかったが、必ずしもそうした選手たちばかりではなかった。敵を知り、己を知れば百戦自ずから危うからずだが、世界を見ようとしない日本社会を反映しているのか、対戦相手のチームや選手をどこまで研究したのかあやしい種目もあった。

 だからといって、オリンピックのメダル獲得数を増やすために国を挙げて必死になれというつもりはない。わが日本国は、メダル数にも目の色を変える、追い付き追い越せの経済発展段階を卒業し、いまは、平和主義のもと、豊かな社会で、心のゆとりを重視する段階にある。勝つことだけを追い求める時をすでに卒業しているのである。ただ、その分、ハングリー精神が乏しいとか、敵を知らないので他国につけこまれやすいといった脇の甘さがあるだけだ。

 北京オリンピックはそのことをはっきりとわれわれ自身にみせてくれた。

 

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2008年8月23日 (土)

映画「ボーダータウン」でマキラドーラの一面に触れた

 日本のエレクトロニクス企業が米国本土での生産よりもコストが安くなるとして、メキシコとの国境を越えたすぐのところに設けられた輸出保税加工区に進出し始めたのは1960年代の後半である。諸外国の繊維、エレクトロニクスなどのメーカーが相次いで工場を新設し、メキシコ人を雇って生産したものを輸出した。

 このマキラドーラといわれる仕組みで、メキシコ経済は発展した。だが、NAFTA(北米自由貿易協定)により、2000年11月以降は、米国、カナダや、EUといった国々にはマキラドーラの適用が廃止された。それに、中国のようにメキシコよりも人件費の安い国に企業が工場を移転するようになったため、マキラドーラの工場は減っているといわれる。

 最近、観た映画「ボーダータウン 報道されない殺人者」は、米国のエルパソからメキシコとの国境を越えたところにあるマキラドーラのフアレスという街が舞台となっている。マキラドーラがどんな経済的な仕組みかについては何十年前から知っていたが、映像で見ると、印象が違うものだ。

 映画は、何年も前から若い女性が次々に殺害され、その被害者数は膨大なのに、真相は定かでない。警察も政治家も腐敗しており、事件を解明しようとしない。そこに、シカゴの新聞社の女性記者が取材に来る。工場で働く若い女性が帰途、強姦・殺害され埋められたものの、運良く息を吹き返し、地元新聞に事件究明を相談する。女性記者は地元新聞の幹部と旧知の間柄だったので、被害者を助け、真相を追究する。以下省略。

 マキラドーラに限らず、輸出保税加工区は世界の各地にある。アジアで日本のあとを追って発展した国々はほとんど輸出保税加工区を設けていた。それが、それらの国々のその後の経済発展の基礎をなしたというプラスの評価をしていいと思う。

 映画で見る限り、メキシコのマキラドーラは、その地域の経済発展をもたらしたが、極端な貧富の格差、犯罪多発といった社会の歪みも大きいという印象を抱く。その国や地域の政治が独裁体制であったり、政治家や企業経営者が私欲をむきだしにしている社会だと、経済発展の成果を特権階層が独占してしまう。外国資本はそうした歪みの拡大に手を貸しているとも言える。

 輸出保税加工区の外国資本は、人件費が低いなどのメリットを得るために来ている。そこで働く労働者がどんな暮らしをしているかとか、一人ひとりが人生にどんな夢や生き甲斐を求めているかなどを知ろうともしない。きちんと部品を取り付けたりしてくれさえすればよいのである。

 しかし、いつクビになるかわからない。単純労働なので、スキルが身につかない。賃金も低く、暮らしはかつかつだ。いま、日本で起きている非正規労働者の問題と本質的に変わらない。そうした問題をマキラドーラは内包している。

 日本の企業も、他国の企業も、グローバルな競争の中で、コストに目が行き過ぎて、そうした社会に及ぼす影響には目をつぶっている。この映画はそのことを意識させる。告発している。 

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2008年8月21日 (木)

医療をめぐる2つのニュースから

①福島県立大野病院で帝王切開手術を受けた女性が死亡したのに対し、産婦人科医が業務上過失致死罪などにあたるか否かが問われていた裁判で、福島地裁は20日、無罪判決を下した。

 「現在の医学には限界がある。そもそも医療は多くの選択を伴う。同時にとりえない方針もしばしばある。術後出血があったときに、緊急手術に踏み切るか、もう少し待機するかを迷うことはしばしばある。この二つの方針は同時にはとりえない。原理的にあらゆる事態を想定することはできない。医療は多くの選択の上に成り立っている。ほかに無数の選択の可能性がある。結果が悪かったとき、後から選択肢を検討すれば、必ず非を言い立てることができる。言いがかりは必ずつけられるのである。」(小松秀樹著『医療崩壊』(06年5月刊))。「診療は試行錯誤の連続とみることができる」(同)。

 確かに、医療行為の結果から医師の刑事責任を追及するという動きは、医師を萎縮させ、「医療崩壊」を引き起こす一因となっている。今回の地裁判決が有罪だったら、産科医や外科医などのなり手が減り、国民を医療不安のどん底におとしいれることだろう。全国の産科医や外科医たちはほっとしたと思う。

 でも、患者にとっては、つい、この間まで、病院や医師が言うこと、することに疑問をさしはさむ余地はなかったことを指摘しておく必要がある。医師が一人前になるためには失敗の積み重ねが必要かもしれないが、医師はミスをおかしても、適当にごまかしていたのではないか。また、大病院では手術前に、センセイに相当の額の謝礼金を渡すのが当たり前だった。地獄の沙汰もカネ次第だったと言ったらオーバーか。それが、やっと、患者が医師と対等な関係になってきたという面を見逃してはいけない。

 医療事故については、医療の本質から言って、第三者の専門家からなる医療安全調査委員会のような組織で判断するのが望ましい。過去、医師や病院が患者を見下していたときには、彼らから出なかったこの第三者機関の設立に、医師界も懸命になってほしいと思う。

②セイノーホールディングスのグループ企業が健康保険組合(西濃運輸健康保険組合)を解散し、政府管掌健康保険組合に加入した。加入者は5万人を超える。後期高齢者医療制度への支援金など外部に拠出する負担が大きくなっており、そのために保険料率を上げると、いままでの8.1%が10%以上になり、政管健保(8.2%)よりもかなり高くなるためだ。

 いまの医療保険制度は大きく分けて、使用者と被雇用者の保険料だけで運営している民間健保および共済と、国・地方自治体が補助している政管健保(中小企業と従業員・家族向け。社会保険庁が運営)および国民健康保険(自営業者・家族、年金生活者向け。市町村が運営)と、制度が分かれている。そして、後期高齢者医療制度が今年度に発足したばかり。財政的に余裕があるとみられている民間健保・共済は政府から高齢者医療への拠出金を命じられ、財政状態はかなり窮屈になっている。政府は08年度に、新たに1000億円の拠出を義務付けようとしているが、法案は成立していない。

 これらの医療保険制度のうち、国や地方自治体が財政負担をしていないのは民間健保だけ。共済は国・自治体が使用者なので、財政負担をしているのと同じ。要するに、民間健保だけが財政支援を受けず、しかも他の保険制度に拠出までしているのである。ちなみに、政管健保は給付費の13%を政府が負担している。

 政府は財政難を理由に、奉加帳を回すかのように、民間健保からカネを強引にまきあげようとしている。セイノーの脱民間健保・政管健保入りは、そうした政府の収奪行為に反旗をひるがえしたようなものである。政管健保入りにより、セイノー従業員の保険料負担はほとんど変わらないですむが、政府はセイノーの従業員に対する医療給付費の13%を新たに負担するようになる。

 日本の医療保険制度は皆保険とはいえ、仕組みをみると、制度間が整合的ではなく、しかもしょっちゅういじって部分手直しをしてきている。それに、今後、高齢化で医療費が増える一方だし、企業のほうも経営の余裕がなくなっている。民間健保は保険料率や、事業主と被保険者との負担割合にかなり自由度があるため、いちがいには言えないが、奉加帳などによる過度の負担をきらって、今後、第2、第3のセイノーが出現することは十分にありうる。 

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2008年8月19日 (火)

交付税頼みの自治体は7割

 総務省が先週発表した08年度の普通交付税交付金の地域別データによると、交付税交付金を受けない地方公共団体は179。都道府県では東京都と愛知県のみ。市町村では177だった。交付を受けない市区町村の人口は3770万人で全市区町村の29.5%だった。1年前は3460万人で27.1%だった。

 基準財政需要額が基準財政収入額の2倍以上、すなわち、税収などの収入の倍以上、カネを使っている都道府県は25にのぼる。北から挙げると、北海道、青森、岩手、秋田、山形、福島、新潟、冨山、福井、山梨、奈良、和歌山、島根、山口、徳島、香川、愛媛、高知、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄。

 各市町村の基準財政需要額と基準財政収入額とを都道府県ごとに集計したデータによると、基準財政需要額が基準財政収入額の2倍以上だった都道府県は、北海道、青森、岩手、秋田、山形、鳥取、島根、徳島、高知、長崎、熊本、宮崎、鹿児島の13である。東北・北海道、九州、四国などに偏っている。

 以上のデータは、地方債などの発行による資金(言うなれば借金)も、税収などと並んで基準財政収入額に含むという総務省版“粉飾”をしたうえでの数値である。基準財政収入額では基準財政需要額を満たせない分は、ほぼ国からもらう地方交付税交付金でカバーしているわけだ。この交付金を配る総務省と、そのカネをいただく地方公共団体とでは、とても対等な関係は成立しない。収入の半分以上を交付金に頼る自治体がこれほど多くては、口では地方自治だとか地方分権だとか言う首長さんの言葉にも迫力がないわけだ。

 したがって、地方にもっと税財源を移譲せよという地方公共団体のかねてからの主張はもっともである。だが、地域間の格差をなくすために必要だから、地方交付税交付金を減らさないようにという地方公共団体の意見には納得できない。国に地域間格差の是正をお願いするのではなく、移譲された(奪い取った)税財源をもとに、地方公共団体の間で、自ら配分調整をするのが地方主権だろう。

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2008年8月17日 (日)

山岸俊男著『日本の「安心」はなぜ消えたのか』

 日本は「安心社会」から「信頼社会」への移行過程にある。だが、「移行を待ちきれずに、日本の社会は崩壊してしまうのではないか」。それが山岸俊男北海道大学大学院教授が本書『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(08年2月29日刊、集英社インターナショナル)を書いたモチーフだという。

 企業の相次ぐ不祥事で、企業=悪というような発想が色濃く残っている日本では、お上による取り締まり強化を求める声が強まっており、その関連で武士道をたたえる書物などが売れている。しかし、社会心理学などの研究者として知られる著者は、「情けは人のためならず」、つまり「モラルに従った行動をすれば、結局は自分の利益になるのだ」という利益の相互性を強調する商人道と、「人間性に基づかない、いわば理性による倫理行動を追求するモラルの体系である」武士道とを対比し、前者こそが「人間の利他性を支える社会のしくみを作る」ものとして日本に求められていると言う。

 著者によれば、地球上には「安心社会」と「信頼社会」の2つがある。前者は閉鎖的な集団主義の社会で、相互監視と制裁によってお互いの間の不確実さを解消する。人々に安心を与え、生活の安定を保証する。身内と波風を立てず、控えめに行動する社会である。そしてよそ者を嫌う。言うなれば、和の社会であり、信頼を必要としない社会である。これに対し、後者は自らの責任、リスクで他者と積極的に人間関係を結ぶ。そこでは、法制度が安心を提供する。そのほうがメリットが大きい。ことわざで言うと、前者は「人を見たら泥棒と思え」、後者は「渡る世間に鬼はなし」だという。

 過去、閉鎖的、集団主義的な「安心社会」で経済発展を遂げた日本は、グローバル化、情報化などにより、「安心社会」の枠組みが崩壊しつつあり、他者との協力関係を構築する「信頼社会」への移行を求められている。著者によれば、規制緩和、情報公開、法令順守などの改革は「安心社会」から「信頼社会」へシフトチェンジしようとの試みであり、それは同時に、日本人の価値観を「統治の倫理」から「市場の倫理」に転換していこうという試みである。

 そこでは、自由かつフェアな競争、正直な取り引きなど市場の倫理が栄えないと、グローバル社会では生きていけないという危機感があったはずだという。ところが、「信頼社会」と全く相容れない武士道、即ち、大義のためにはすべてを犠牲にするという「統治の倫理」がもてはやされるようになった。まして、水と油ほどに違う武士道と商人道とをまぜこぜに用いたら、社会全体が腐敗しかねない。したがって、著者は、正直者が損をしない社会制度を築くことによって、「市場の倫理」である商人道が自ずと普及することを期待している。

 ほかに、本書で、興味深い指摘だと思ったのは、1つには、若者の価値基準になっている“KY”について、「場の空気を読み、他者との間に波風を立てない生き方は、本来、安心社会の中で評価される生き方であるはず」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはず」、「若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での平安を求めているとしたら――これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるをえません。」

 いま1つ、日本人は「むしろアメリカ人よりも個人主義的な色彩が強いのではないかという印象を持ちます。」。それは「日本人がアメリカ人よりも他者一般に対しての信頼感が低いことと関係があるのではないかと思わされます。」。いろいろな調査の結果だけに、説得力もあり、納得した。

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2008年8月14日 (木)

元をたどれば官僚支配

 近代経済学者で著名な小宮隆太郎元東京大学教授が14日付けの日本経済新聞「経済教室」欄で、次のような指摘をしている。

 10年前に書いた同欄の「やさしい経済学」の中で、同氏は①速すぎる人口減少のスピード、②過大な政府の規模、③GDPに対する公債残高の急上昇、の3つが日本経済の中長期的な重要課題であると述べた。②については、社会保障に関する政府の役割は増大せざるをえないと考えたが、公共投資や第三セクターや天下りなどに象徴される税食い虫の「官産複合体」をスリム化することが重要だという意味だとしている。

 同氏は14日の「経済教室」で、「十年前、私はこれら三つの課題の改善・解決に悲観的でなかったが、今や認識を変えざるを得ず、日本の現状には「亡国の兆し」が表れ始めたと思うようになりつつある」と言っている。そして日本の政治が根本問題に取り組まない点を指摘し、「サッチャーやブレアのような名宰相が日本にも現れて、日本の経済社会を蘇生させてくれないだろうか。」と締め括っている。

 私も、問題が日本の政治にあると思っている。自民党・公明党の連立政権は来たるべき衆院選挙で劣勢が予想されるため、おりからの景気後退に勢いを得て、即、財政のばらまきへと突き進もうとしている。与党の政治家には、権力を握り続けるためには、将来の日本がどうなろうとかまわないという、やけのやんぱち的な空気が出始めているのだろうか。しかし、長年続いた保守政治を支え、好きなように誘導してきた官僚支配を突き崩さないと、小宮氏の挙げた3つの重要課題は改善・解決しないことを見逃してはならない。

 出生率の急速な減少を止めるには、出産、育児を喜びと感じることができる仕組みづくりが必要だが、それは縦割り行政では絶対にできない。2002年2月から昨年秋ごろまでの景気上昇局面においても、国・地方の長期債務残高は減らなかったし、基礎的財政収支が赤字から脱することはなかった。地方分権改革、規制改革、行政改革などの構造改革は各分野に根を張っている既得権益を突き崩し、グローバルな競争に日本が勝ち残るためのものだが、それを達成するための政治のリーダーシップと官僚の下支えがどちらも欠けていた。

 政治家が荒削りなビジョンを打ち出し、官僚がそれを肉付けするというのではなくて、現実は、官僚が自分の役所の範囲で都合のいいビジョン・政策をつくり、その実現のために大臣などの政治家を利用するようになっている。政治家も票になるならと安易に動く。政治家は官僚の掌の上で踊っているのだ。これを亡国を言わずして何と言うべきか。 

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2008年8月11日 (月)

よくもここまで放っておいたものだ――滋賀県の造林公社の債務1千億円

 8月11日付け日本経済新聞は「造林公社債務で滋賀県ピンチ  一括返済へ迫る期限」という囲み記事を載せている。(社)滋賀県造林公社および(財)びわ湖造林公社の農林漁業金融公庫に対する利息支払いが昨年春以来、滞るようになり、同年10月に、全額(480億円余)繰り上げ償還請求の通知を受けた。そこで、県は債務返済計画を立てるとともに、県造林公社に資金を出した大阪府、兵庫県、大阪市など下流8団体にも債務圧縮などを求めて特定調停を申し立てた。しかし、こうした県の打ち出した対策が頓挫している実情を記事は報じている。

 確かに深刻な問題であり、県が窮地に立たされているという見方もありえよう。だが、関係者にとっては、問題ははるか以前にわかっていたことである。森林の果たす役割は重要であるが、それにしても、よくもここまで放っていたものだというのが私の感想である。

 造林公社は山の所有者に代わってスギ、ヒノキなどを植林し、将来、伐採したときに販売収入のある割合をいただく。しかし、伐採して初めて収入を得るというビジネスなので、農林漁業金融公庫から融資を受けたほか、県や下流の府県市などから資金を提供してもらった。無収入なのに、公庫や県に利息を支払わねばならないので、債務残高が膨らむ一方である。近年は県の出した資金(07年度末現在、県公社に83億円、びわ湖公社に343億円)を無利息にしている。

 しかも、スギやヒノキの市況は安い外材の輸入により、1990年ごろから一本調子で下がっている。実に4分の1前後にまでだ。県がこうしたピンチになってから試算したところによれば、県公社は負債総額365億円に対し、将来の収入見込みが約122億円にすぎない。びわ湖公社も負債702億円に対し、約281億円の収入しか見込めない。

 植林は1990年以前に終わっており、あとは保育管理をしているだけだから、経営の悪化は10年以上前にわかっていたことだ。第三セクターだから放ってあったのかもしれないが、県の幹部や県議会・議員、地元住民はどこまでこの問題を真面目に考え、取り組んだのかと思う。国の機関である公庫にしても、延滞が起きるまで何もしなかったのではなかろうか。そうだとすれば、無責任きわまる。

 公庫に対する債務に対して県は返済保証をしている。だが、嘉田県知事は県財政が厳しいので、公庫から一括返済を求められても支払う余力はないと言っている。本来は、放置していた関係者(県の職員、議員、住民)から相当のカネを召し上げるぐらいが当然ではないか。さもないと、財政ゆるふんの地方自治体の甘えがいつまでも続く。

 夕張市もそうだが、破綻すれば、当事者だけでは始末できないから、結局、国の支援などが行われる。つまり、ほかの地域へのつけ回しである。今回も、同じようなことが起きる可能性がある。これでは国・地方を合わせた財政健全化はなかなか進まない。

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2008年8月10日 (日)

消費者・投資家が力を持ち、市民が力を失ったというライシュ

 ロバート.B.ライシュ著『暴走する資本主義』(雨宮寛/今井章子訳)を読んだ。原題の『Supercapitalism ーThe Transformation of  Business ,Democracy ,and  Everyday  Life』のほうが内容に即していると思う。

 著者によれば、技術革新、グローバル化、規制緩和の3つによって、経済における権力が消費者および投資家にシフトした。企業は消費者を引き付けるために、コスト引き下げなどを行なって安く売ることに必死になる。また、株主・投資家に見放されないように利益を増やすことに懸命に努める。そして、競争上、法規制などで不利にならないように、政治家に働きかけたり、世論誘導にあの手この手を使う。資本主義が民主主義を侵略しているというわけだ。

 現在の資本主義を「超資本主義」と呼ぶ著者は、したがって、資本主義を民主主義から分離し、両者の境界線を守る必要があると主張している。

 超資本主義をわかりやすく説明しているのはウォルマートについての記述である。ウォルマートは世界最大のスーパーで、安く売ることを使命としている。消費者にとって安いというのは大変な魅力だが、そこで働く従業員の年間給与は1万7500ドル、1時間当たりにすると10ドル弱にすぎない。年金保障もなく、健康保険手当も雀の涙。同社は「賃金と福利厚生を低く抑えるためなら何でもする」。労働組合を嫌い、以前、労働組合が誕生した店舗を閉鎖したりしたこともある。〔日本のワーキングプアを連想した。〕

 他社との競争に負けない売値の安さを貫くには、仕入れをとことん安くするため世界中から調達するとか、主要なコストである人件費を低くしていくしかない。そうして高めたウォルマートの収益力に着目して、年金基金や投資信託などが同社の株式を保有している。超資本主義のもとでは、こうしたメカニズムはすべての企業に当てはまり、ウォルマートだけを対象とする批判は的はずれだという。

 ウォルマートのCEOの年収は2005年に手取り1750万ドルだった。平均的な従業員の賃金の約900倍である。しかし、有能な経営者は少なく、そのため、奪い合えば、高くなって当たり前だという。株主・投資家にとっては、会社の利益を高める経営者には高給を払うのは不思議でも何でもないわけだ。

 CSR(企業の社会的責任)に厳しい見方をするライシュは、「企業の経営者たちは、誰からも自社の利益と公益とのバランスを図ることを求められてはいないし、また彼らにそのような良心的計算をするだけの専門的知識もない」と言い切る。そして「それだからこそ私たちは政府が国民を代表してそうした線引きを行う民主主義の世界に生きているのだ」と述べる。

 私たちは仕事で生活の糧を得る。多くの人たちが企業人・組織人であり、他方、消費者・生活者である。あるいは地域の住民である。自分が働く会社の製品が安く買い叩かれるのはいやだが、消費者としてはより安く売っている店を選ぶ。地域の商店が衰退してもだ。私たちがそういった二面性を持っており、それが行き過ぎると、ライシュが指摘するような問題が起きてくることがよくわかった。ただ、処方箋については、日本なりにいろいろ考えられるような気がする。

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2008年8月 9日 (土)

北京五輪の開会式

 北京オリンピックの開会式をテレビで見た。長年の念願がかなって、中国が世界の一流国の仲間入りをしたのだという喜びと気負いに満ちあふれていた。いささか自己陶酔の面もないではなかったが‥。

 開会式のショーは、最新のエレクトロニクス等の技術、世界最大の人口を反映したかのような人海戦術、および、さまざまな発明や文化を生み出してきた5千年の歴史の3つを基本に構成されていた。そして、活版印刷技術の発明を表現するところで「和」という文字を浮き上がらせたように、世界中の国々が仲良く平和に暮らす「一つの世界、一つの夢」という理想を強調した。

 しかし、スポーツの祭典に、これほど政治(権力)を感じさせるオリンピック開催は珍しい。いまの中国は貧富の極端な格差、都市と農村の格差、共産党や官僚の腐敗、少数民族抑圧、言論統制など実に多くの矛盾、問題を抱えている。それらが中国を訪れる外国人の目にふれないようにするため、強圧的に“臭いものにフタ”をしたりしている。

 グルジアが親ロシアの南オセチア自治州を力づくで言うことをきかせようとしたため、ロシアがグルジアに軍事攻撃を開始したのが北京五輪開会式とほぼ重なった。今夏の広島、長崎の原爆慰霊の式典で、核兵器廃絶を強く訴えたが、これまで中国も、ロシアも廃絶には否定的だ。そんなこんなを考えると、北京五輪は中国(共産党)の国威発揚に終わる可能性を否定できないが、外国(人)との接触を通じた“開放”によって国民が世界を知ってしまった影響は相当なもののように思う。

 ところで、各国の代表団の入場行進を見ると、国家・国旗がいかに大きな力を持っているものかが改めてわかった。国連などで厳しく糾弾されている問題国の選手らにしても、行進中、喜々としていた。

 普段、サッカーなどの選手は国境を超えてあちこちのチームで働いている。個人としての能力を売っているのである。ところが、オリンピックとなると、突然、母国のオリンピックのために編成されたチームの選手としてふるまう。グローバリゼーションの時代といえど、オリンピックは国と国との闘いという国家意識、愛国心を高める役割を果たしているのである。

 地球温暖化など、国境を超えて人類が取り組まねばならない難問が増えている。ところが、政治とは離れているはずのオリンピックにおいて、国という仕切りがこれまでも、これからも大手を振っているのは奇妙な感じがしてこないでもない。国家意識をかきたてるオリンピックは時代遅れの存在なのかもしれない。

 米国の代表団からは、米国がまさに多民族国家であることを感じた。おそらく、米国はメダルの獲得数に目の色を変えない唯一の国であるようにも思う。  

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2008年8月 7日 (木)

年金の地域経済に占める役割の大きさ

 ことしの厚生労働白書のうち、社会保障関係の部分を読んでいたら、「地域の生活を支える公的年金」と題する記述があった。2005年度の県民所得が1996年度のそれより低い都道府県は43都道府県に達する。そして、すべての都道府県において、2005年度の年金総額が1996年度のそれより大きい。その結果、県民所得に対する公的年金総額の割合は高まり、2005年度に10.1%に達した。1996年度には6.3%だった。

 「年金総額と地域経済の指標」というコラムを読むと、全国を10ブロックに分け、公的年金総額を農林水産業および製造業の域内総生産額と比べたデータを表にしている。それによると、すべてのブロックで年金総額>農林水産業域内総生産となっており、その倍率は最大29.3倍(近畿Ⅰ)、最小2.3倍(南九州)。全体の平均では6.5倍になる。農業の影が薄いのを改めて感じる。

 同様に、ブロック別に、年金総額を製造業の域内総生産額と比較したデータでは、すべてのブロックで年金総額<製造業となっているが、年金総額/製造業の倍率は0.2(関東Ⅱ、東海)~0.9(北海道)である。北海道は年金総額が製造業生産額に近い。これにはちょっとびっくり。全体の平均では0.4、すなわち、年金が製造業総生産額の約4割に相当する。

 異質の数値の比較に過ぎないとはいえ、公的年金の給付額が地域経済、ひいては日本経済全体にかなりの影響を与える規模になっているということだけは理解できよう。

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2008年8月 5日 (火)

いっこうに変わらぬ天下りのひどさ

 2006年12月16日付けのブログで「「天下り」のひどさに唖然」と書いた。そこで取り上げた某公益法人の理事長が最近替わった。今度の人は見るからによぼよぼしていて、意欲、気力は全くなさそう。前任者は新たな天下り先に移ったという。どうやら某中央官庁は80歳近くまで老後の面倒をみているらしい。

 この法人は職員を次々に減らしてきて、いまはほとんど非正規雇用の人たちばかりになっている。今度の理事長交替をみて、同法人で働く非正規雇用のXさんは「ああいう人たちがうらやましいですね」と語っていた。若い人たちを不安定な雇用形態で雇い、自らは高給を食んで渡り歩くというこの不公正さ。こんなことが、お天道さまのもとでいつまでも続くのなら、この日本には明るい未来はないだろう。

 古巣の某中央官庁があっせんしてくれる限り、70歳を大幅に過ぎても、平然と天下りのうまい汁を吸い続けるのをおかしいと思わないのにはあきれる。OBの就職あっせんをしている某中央官庁の官房の連中についても、これだけ天下り批判が強いのに、それを無視する異常さには驚く。狂っているのは厚生省・社会保険庁だけではないのである。

 マンホールに潜って工事をしていた人たちが豪雨で急増した下水道の水流に流されて亡くなった。リスク対応の甘さが原因だと思うが、縁の下の力持ちのように、社会を支えている無名の人々が非業の死をとげるのはあまりに痛ましい。それと対比して、天下りにみられる官僚たちの組織的なエゴに腹が立ってならない。 

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2008年8月 3日 (日)

農業の直売所は成長市場とか

 一橋大学の関満博教授といえば、ものづくりを中心に地場産業の復活・再生を研究してきた学者だ。エネルギッシュに現地、現場を駆け巡り、近年は中国の工業化にも研究の対象を広げていた。そのご本人が8月1日、東京で開催された「地域力創造シンポジウム」で基調講演した際、研究分野を農、食、暮らしを軸にしたものに移したと語った。「私はいま発見の喜びにひたっている」という。

 地域と産業・企業の関わりを専門とする同氏は、ものづくりに当てはまる市町村がいまや全国で300ぐらいしかないと指摘し、ものづくりを軸とする地場産業の復活、再生といった議論は苦しくなってきたと述べた。そして「こうした研究を35年間やってきたが、もううんざり。研究者には新しい発見がないと駄目だ。正直言ってあきあきしていた」と“告白”した。

 同氏によると、農業は農林水産省関連の産業で、経済産業省が扱う産業とは断絶がある。県庁などでも、商工部と農業とは別になっている。また、農業経済学はほとんどマルクス経済学で、大学の経済学部には講座がなく、農学部の中にある。要するに、完全に別々の存在である。しかし、中山間地域を歩いてみたら、農業に市(いち)ができ、それが発展してきた結果、地域と産業・企業の関わりという同氏の研究分野にぴったり合うものになっていたというわけだ。

 農家が無人販売所で野菜などを売るようになったのは約60年前、そして農家の女性たちが数人ないし数十人集まって直売所を始めたのは20年ぐらい前という。農協がたかをくくっているうちにどんどん増え、いまや、いいものは直売所に持ち込み、そうではないものを農協に出すようになっているとのこと。農協も5年前に直売に参入したが、こちらは生産者の顔が見えないという欠点があるそうだ。

 直売所での売り上げはいまや年間6千億円を超えて、年々10~15%伸びている。同氏は「最後の成長市場」だと指摘する。そして、「中山間地域の明日を切り拓くのは直売所、加工場(集落の農家が直売所で売るため加工する)、農村レストラン(集落の農家が共同で地元の材料を使って飲食を提供する)の3点セットだ」という。いずれも、農家の奥さんがたが営むものだ。

 直売所を始めたことで現金収入を得、預金通帳を持つようになった農家の奥さんがたは買いに来るお客さんと話すようになり、顧客ニーズを知るようになった。その結果、例えば、農協の指示に従って全国一種類だった大根づくりが、いろいろな種類をつくるようになったそうだ。また、直売所などで経営の面白さを知った奥さんがたは高齢者であろうと、元気はつらつとしているらしい。

 農協や農業経済学が全く関心をみせないうちに、直売所が核になって農業地域の市場経済化が進んでいるという実態を関教授は今後の研究対象にしていく。都市住民が知らない変化を分析してくれるのは楽しみと言ったら失礼か。

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2008年8月 2日 (土)

福田改造内閣の評価

 メディアの世論調査によれば、内閣改造で、福田政権の支持率は少し上がった。しかし、民主党の支持率のほうが自民党のそれより高いことは変わらない。

 改めて改造内閣の顔ぶれを見ると、魅力に欠ける。清新さもない。昔の名前で出ています、という感じでしかない。福田首相は個人的にはまじめないい人なのだろう。しかし、テレビを見ても、国民に訴えかける言葉を持たない。各閣僚にしても、派閥のボスとか準ボスが多いが、彼らは魅力がない。古色蒼然とした印象である。自民党は長く政権の座にあり、閣僚のポストをたらい回ししてきたので、ああ、この人か、と名前は知ってはいるが、過去に大臣のとき、何かをなした人という記憶が私にはほとんどない閣僚ばかりなのである。

 麻生幹事長の個人的な人気はあるにせよ、党4役を含め、政府・与党の主要な顔ぶれが自民党の退勢を挽回できるとは思えない。時代の風を読み、それを踏まえて清新な顔ぶれをそろえることができるなら、内閣改造にも多少の意味があるが、挙党体制をつくることに必死だったというのでは、福田首相の限界をつくづく感じる。

 戦後、長く官僚支配が続き、閣僚も与党議員も、官僚制度に乗っかっていれば、うまくいくと思っていた。それが、内外の情勢が激しく変わるようになっても、基本的には変わっていない。新閣僚になったとき、即刻、その官庁の役人のレクチャーを受け、それをもとに就任早々の記者会見で答えると、それが以後の大臣の行動や発言を拘束してしまう。官僚の言いなりになるのである。そうした問題をわかっていて、大臣が自らの考えで答えることができればいいが、そういうしっかりした政治家は自民党にどれだけいるのか疑わしい。内閣改造があっても、官僚支配の構造は続くのである。

 自民党にも有能な若手議員がいる。だが、今回、彼らの起用はわずかだった。党が政権を失うか否かの危機に直面しているのに、主要閣僚や党4役のような重要なポストへの若手起用は少なかった。大臣と4役の22人のうち、60歳未満は6人しかいない。65歳以上は12人にも及ぶ。グローバル化、IT革命や世界の多極化などをトータルにとらえつつ内政の諸課題を適切に処理し、国民を幸せにするには、どういう政治家が上に立つべきかが福田首相にはわかっていないのである。

 ところで、最近、よく言われるのは、「メディアも悪い」ということだ。福田首相に対するインタビューで、びしっと切り込むことが皆無なのはどうしたことか。いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どのように、というのを追究するのが最低限、メディアの役割だが、「なぜ」の追究が弱い。客観報道といえば格好いいが、国民・市民の幸せとか、望ましい姿という基軸がないままに報道合戦に明け暮れていると、新聞の読者やテレビ・ラジオなどの視聴者に見放されてしまう。1分1秒でも早くという速報よりも、すぐれた分析、問題提起にもっと力を入れてほしいと思う。いまもって年功序列で、ベテランはニュース報道の第一線にはいないという、メディア側の旧態依然たる構造こそ大きな問題である。

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