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2008年12月31日 (水)

原敬記念館と大慈寺に寄る

 最近、岩手県盛岡市に用があって行ったとき、原敬記念館を訪れた。原敬(はらたかし、1856~1921年)が子どもの頃に住んでいた場所に記念館がある。一通り見て、いまの日本に、これほどの人物が総理大臣だったらなあ、とつくづく思った。

 原敬総理大臣は1921年(大正10年)11月4日、東京駅頭で暗殺された――といえば、日本史の授業で学んだのを思い出す人もいよう。「国会開設100年」という特集記事(1990年11月25日付け日本経済新聞朝刊)には、日本の政治家10傑のトップに原敬が挙げられている。ちなみに2番が吉田茂、3番は伊藤博文である。原は初の政党内閣を組織した平民宰相で、かつ白河(福島県)以北出身の初の大臣経験者でもある。

 記念館の展示によると、「原敬が目指したもの」として、①朝敵の汚名を冤ぐ、②藩閥の打倒打破と政党政治の確立、③国民生活の向上、④民主化の推進、⑤外交の転換、⑥皇室の民主化、が挙げられている。

 ①と②は幕末から明治時代への歴史を色濃く反映したものだが、③以降は現代の政治家が目指すべき目的と基本は変わらない。例えば、③では、高等教育機関の増設、鉄道・通信・港湾・道路整備による地方振興、結核予防法などの制定、職業紹介所、労働組合などの立法化、第一回国勢調査の実施など、④では大正天皇の病状発表(情報公開)、陪審法案の提出(裁判への国民参加)など、⑤ではアメリカ重視、中国との関係改善、シベリア撤兵など、⑥では皇太子外遊の推進、宮中の改革、皇室財産の国民への還元など。

 展示で印象に残ったのは、第一に彼の多様なキャリアである。司法省法学校(のちに東京大学法学部に)を退学させられたあと、郵便報知新聞社、大東日報といった新聞社にいて、それから外務省に入り、通商局長、外務次官などを歴任した。パリ駐在から戻った農商務省参事官のとき、動物の乱獲を憂い、森林を国家永遠の財産とし、水源の涵養など国土保安および伐採の禁止を目指して調査のための特別会計を設けるよう訴えたことがある。そして外務省を退いたあと、大阪毎日新聞社社長や大阪北浜銀行頭取も務めた。衆議院議員になったのはそのあとである。著書も多く、新聞社社長のとき、木下藤吉郎のペンネームでコラムを書き、単行本にしたこともある。

 第二に、暗殺の危険があったため、自分が死んだ場合の葬儀の仕方などを予め遺言にしたためていたことである。葬式は盛岡の大慈寺で行なうこと、墓石には名前だけを刻むことなど、質素な葬儀にするよう家族に書きのこした。大慈寺に行って墓に詣でててきたが、確かに、現職の総理大臣の墓にしては簡素であった。

 第三に、19歳のときから、凶刃に倒れた65歳のその日まで日記を書き続けたことである。遺言で日記は一切公表されなかったが、第二次世界大戦後、「原敬日記」として公刊され、貴重な研究資料となっている。彼は日記メモを毎日したため、あとで1週間分ないし10日分を日記帳に書き記したという。彼は大変な勉強家であり、読書量も桁外れだったようだが、日記も膨大な量である。

 政治家の死後、その業績をたたえ、人物をしのぶ記念館がどれだけ国内にあるか知らない。原敬の場合、亡くなってから80有余年も経つのに、記念館が存続している。では、現在から過去にさかのぼって戦後の歴代総理大臣を見たとき、何十年のちまで立派な記念館が残りそうなすぐれた政治家は果たして何人いるのだろうか。近年の総理大臣群像を思い浮かべると、寒心にたえない。

 しかし、悲観ばかりしていても仕方がない。あすに期待しよう。現代日本が直面する危機を突破できる政治のリーダーシップをいかに確立するか、それが2009年の主要な課題の1つだが、それに向けて政治はようやく胎動を始めたようだから。

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