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2009年5月31日 (日)

“大文字”の言葉と“小文字”の言葉

 佐野眞一著『目と耳と足を鍛える技術』(筑摩書房、2008年11月)を読んだ。「初心者からプロまで役立つノンフィクション入門」という副題が付いている。古手のジャーナリストが読んでも教わるところが多々あった。その中で一番グサリときたのが「大文字と小文字」、「語って説かず」の個所である。

 「“大文字”の言葉とは、日本列島の津々浦々で通用する便宜的な用語という程度の意味」、「“小文字”の言葉とは、世界を説くことはないかわりに誰の胸にも届いて感動を呼び起こす肉声といった程度の意味」だという。“大文字”言葉は聞いたときはわかったような気にさせるが、あとから考えると、よくわからない。それに対して、“小文字”言葉だと、活字だけで世界がくっきり浮かびあがる。著者はそう語る。そして、ノンフィクションは後者であり、「語って説かず」が要諦だと言う。ブロガーとして反省しきりだ。

 5月29日の経済財政諮問会議は、「安心実現集中審議・その4―とりまとめ」が行なわれた。民間議員4氏が資料として提出した「安心と活力が両立する社会の実現に向けて」を読んでいたら、佐野氏の言う“大文字”の言葉の羅列のような気がしてきた。抽象的な言葉の羅列ばかり。数値も何もないので、さっぱり頭に入ってこない。どうみても、きれいごとに終始している。単に会議の資料にすぎないというのかもしれないが、情報公開する以上、国民の多くが理解できるのが望ましい。(以下は、読み飛ばして結構)

 その資料は「1.基本方針」、「2.取組みにあたっての原則」、「3.安心社会実現の時間軸と目標」などで構成されている。「1.基本方針」は5項目あるが、その第1は、「「社会そのものの持続可能性と活力」のために、格差固定化の防止、ひいては、少子化傾向の反転等に向け、次代の日本を担う若者世代・子育て世代の支援・育成を強化していくこと」とある。その第2は、「意欲ある全ての世代の人々が働ける環境づくり(「雇用の安心」)を「安心と成長」という両輪を回す「主軸」として位置づけること」という。

 基本方針の第3は、「分断された社会保障政策及びその関連分野の有機的連携を図り、安心の五つの領域(雇用、医療・介護、年金、少子化、教育)が互いに正の相乗効果を発揮するような施策を講じていくこと」とある。さらに第4として、「国民の信頼回復のためにも「社会保障制度の綻び」の修復は、それに要する負担の費用について安定財源を確保することと併せ、最優先で行なっていくこと」とし、第5に、「経済状況の好転につれて一時避難的な安心から自立できる安心へと重点を移していくこと」を挙げている。

 次に、「2.取組みにあたっての原則」では、「取組原則1 透明性向上や“みえる化”」、「同2 努力するほど報われることが可能となる制度設計」、「同3 国民本位の制度横断的な対応」、「同4 「サービス・給付」と「財源」の一体的検討と同時実行」、「同5 行政体制・執行の担い手の見直し」の5つを挙げている。そして、それぞれについて各論を2~3項目ずつ述べている。

 そして、「3.安心社会実現の時間軸と目標」で、いつまでに(時間軸)、どうするか(目標)を3つの段階に分けて記述している。即ち、①2009~2011年度頃の安心再構築フェーズ(目標=優先課題の着実な実施と安心基盤の設計)、②2011年度頃~2010年代半ばの安心回復フェーズ(目標=安心回復に向けた優先課題と安心基盤づくりへの取組)、③2010年代半ば~2020年代初頭の安心充実フェーズ(目標=全世代・全生涯を通じた「切れ目のない生活安全保障」の構築)を掲げている。それぞれのフェーズに関して目標内容を簡単に挙げている。

 これらを読めば読むほど、きれい事に終始した文章のように思えてくる。国民に日本経済・財政が直面している現実の厳しさをはっきり伝えないで、ばら色の日本の将来を描いてみせている。財政改革についても、「持続可能な財政構造の確立」とか「安定財源」という言葉で増税をほのめかしているだけだ。総選挙の前だからと、国民に厳しい現実および未来を隠すのは、政治家・政党みずからが民主政治=衆愚政治と思っているからだろう。

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2009年5月30日 (土)

辻井喬(堤清二)氏の講演

 詩人・作家の辻井喬(堤清二)氏が日本記者クラブの総会記念講演で、「二十一世紀の日本文化」と題して話をした。ネットなどでさまざまな情報が飛び交う結果、情報の受け手が勝手に思い込んだにすぎないのに、メディアは本当のことを言っていないと思われてしまう。このように、いまはメディアにとっては辛い状況だと指摘し、「もとの情報が正しければ問題ない。それだけにメディアの責任は重くなっている」と語った。

 本論に入って、「客観的な目で見ずして、ネーション・ステートの自立性はありえない」と言ったあと、第二次世界大戦の名称はどれが正しいのか、いまだにわからないなど、日本の近代史に関して不思議なことが多いと述べた。そして、日本は外国からどう見られているか、もわかっていないとして、佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した理由などについての外国人の対日観(例えば、日本が核兵器を持ったら、何をするかわからない、など)を紹介した。

 それと、日本が相手の国の歴史、習慣、言語などを学ぼうとする意欲が高度成長の過程で低下したことを指摘した。それは、国内でも同じで、東京などから地方に転勤した人が地方のことを学ぼうとしなくなったという。

 「日本は経済は成長したが、文化的には危ういところに来ている。これで軍隊を持ったら、クーデターが起きるのではと危惧する」と現状をとらえたあと、文化の衰弱の原因を挙げた。第1に、共同体の消滅。地域共同体、国と個人の間、職場共同体、労働組合、政党、これらの中間組織がいずれも大衆の信頼をなくしたという。

 第2に、思想と感性がばらばらになっていることを挙げた。明治以来、思想的空白のままで来ているが、これを人々は辛いと思わないという。第3に、伝統との断絶を挙げた。文化がクリエイティビティを持つには伝統を現代に生かす必要があると述べた。「源氏物語」や「世阿弥」の演劇論など、日本には世界に誇るものがある、として、「日本には洋々たる伝統がある」と締めくくった。

 私は取材でセゾン・グループの総帥としての経営者、堤清二氏に会ったことがあるが、それは同氏が日の出の勢いの頃である。とても知的能力の高い人だが、それゆえに社内では畏れられていた。彼の言うことを即座に理解し、適切に応答できないような部下は即、左遷されるという噂すらあった。そんなことを思い出しながら、この二足のわらじをはいてきた稀有の人物の話を聞いていた。

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2009年5月28日 (木)

党首討論を聞いて

 きのうの党首討論(国家基本政策委員会(衆参)合同審査会)を一部、テレビの生放送で聞いた。麻生太郎首相と鳩山由紀夫民主党代表の「人間力」とも言うべきもののレベルが感じられ、興味深かった。

 麻生首相の話は、しゃべった通りを文字にしたら、何を言っているのかが非常にわかりにくいに違いない。新聞で読めば、記者がわかりやすく直しているから、あまり感じないが、耳から聞くと、繰り返しが多く、非論理的なこと、そして、中身のないことがよくわかる。

 著名な政治家や元政治家などには、しゃべった内容を忠実に文字にしたら、全く非論理的な人がいる。本や雑誌に掲載するとき、ほとんど全文を書き直さねばならない。しかし、講演などを聞いているときは、聴衆を惹きつける。アドルフ・ヒトラーのように、演説など言葉には力があることは事実だが、麻生首相には、そうした“魅力”もない。

 一方の鳩山民主党代表はいささか勉強不足というか、追及の度合いが浅いという印象が強かった。「官僚支配」というだけでは説得力がない。誰もがうなづかざるをえない具体的な事実で迫ってほしかった。ただ甲高い声でキーキー叫んでいるような感じがした。

 普段の国会論戦もそうだが、与党は一切、補正予算案を修正しようとしない。神様ではないから、予算の全てが完璧であるはずがない。修正するために国会審議があるはずだ。だが、いまの与党の姿勢は、政権をとったほうが、多数決、つまり数の論理でごり押ししているとしか思えない。麻生首相の答弁にもそれが表れている。

 いまの姿は、選挙で勝ちさえすれば何をしてもよいということである。それが政治を形骸化している大きな原因だ。民主党が政権をにぎったときに、同じことが起こるのではないかと心配だが、そうでなければ、日本の政治は大きく前進するだろう。

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2009年5月25日 (月)

労組も温室効果ガス削減中期目標で経営側と足並みを揃えるのか

 21日の新聞朝刊で1ページ丸々を費やした意見広告「考えてみませんか? 日本にふさわしい目標を。」にはびっくりした。スポンサーとして、産業別労働組合の名前が日本経団連や産業別団体の名前と一緒に載っていたからだ。

 経済・産業団体59と産別労組7との意見広告に名前を連ねた産別労組は電力、鉄鋼、化学、紙パルプなど、エネルギー集約型の産業に所属するところだ。

 全面意見広告の主張は、日本政府が近く決める中期目標で、2020年時点での温室効果ガス年間排出量を2005年比4%減(1990年比だと4%増)にすべきだというもの。6つの選択肢のうちで、削減幅が最も少ないケース(選択肢①)にあたる。広告では、「国際的公平性」、「国民負担の妥当性」、「実現可能性」が確保されるのはケース①だと言っている。この場合、米・EUの目標と同等の費用負担になると注記している。

 より削減幅を大きくすれば、「日本のGDPの減少、失業率の悪化、また可処分所得の減少や光熱費負担の増大等、社会経済に与える影響、家庭での費用負担も大きくなります」とも表明している。さらに、「現在の日本では、年金、医療、介護、雇用、地域経済等、多くの重要な課題があり、温暖化対策の負担だけが突出するのではなく、バランスのとれた政策が必要です。」と言っている。

 政府による国民の意見調査では、ケース③(2005年比14%減、1990年比だと7%減)が一番多いそうだが、意見広告では、このケース③を選択すると、ケース①に比べ、失業率が0.2%~0.3%上昇する、可処分所得が世帯ごとに年約4万~15万円減る、光熱費が13~20%増えて世帯ごとの負担増が年約2万~3万円になるなどと強調している。

 しかし、ケース①を選ぶのは、すでに、このブログで経団連について指摘したように、あまりに内向きの発想である。それに固執したら、ポスト京都の温暖化対策をぶちこわしにする恐れさえある。気候変動の影響を考えれば、日米欧の先進諸国は大幅な削減目標で合意する必要があるし、中国、インド、ロシアなどに思い切った環境対策を実施してもらうためにも、主要経済国かつ環境先進国の日本としても乾いたタオルをさらにしぼる努力、犠牲を払うことも覚悟すべきだろう。

 もちろん、国益を踏まえることは当然だが、日本経済がガタガタで、政治も混迷状態だから、ここで野心的な目標を掲げて、グリーン革命を先頭に立って実現するぐらいの気概が、いまの日本には必要ではないか。政府は相変わらず、外圧にどう対処するかではなく、世界をどう引っ張っていくか、という姿勢に転換してほしいものである。

 いま、日本はそうした大きな曲がり角にさしかかっている。それなのに、労働組合までもが企業と歩調を合わせて、内向きになっているのは明らかにおかしい。労働者は市民であり、生活者でもある。そして、地球環境保全については、万国の労働者、市民、生活者と共通の利害を持っている。それを認識し、他国の労組とも協議して、日本の労働組合としての独自の見解を打ち出してもよかった。

 企業内組合だから、企業側と歩調を合わせたわけではないかもしれない。しかし、はしなくも、日本の労働運動の歪みが今回の共同意見広告に反映されたようにもみえる。 

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2009年5月24日 (日)

フーン、そうかと思った、増田悦佐著『格差社会論はウソである』

 久しぶりに刺激を受ける本を読んだ思いがする。増田悦佐著『格差社会論はウソである』(PHP研究所、2009年3月11日発行)だ。日本のこととなると、何かにつけ、悲観的、自虐的に解釈する傾向がこの国にはある。そうした通説とか常識を、具体的なデータで次々にひっくり返すことにより、日本が世界で一番良い国であることを論証している。

 本書で強調しているのは、日本が世界でもきわめてユニークな社会であるという指摘だ。例えば、①「日本人を幸福にするための要求水準は世界一高い」、②「日本社会の特徴として、非常に平等化圧力が高い社会」であり、男女間の体力差が縮まっている、「日本ほど子供が社会的に成熟している国はない」、そして、「知的エリートと大衆とのあいだに知的能力格差がない」、③「子どもと若者、とくに若い女性たちがじぶんたちの文化と市場を自分たちの力で作り出せる唯一の国である」、④日本の企業について、これまでのように「大企業はヌエ的な生き残り重視、中小企業が戦わない経営に専念すれば、それで良いのだ」―など。

 また、「現代の若者の無知、無気力、自信喪失、望みの低さ」といった一見否定的な特徴が「おとな顔負けの社会的成熟度を持った彼らの叡智の表れ」だと述べているなど興味深い指摘が随所にある。

 著者によると、日本の経済社会の直面する危機はたった一つ。知的エリートがあおりたてる根拠の乏しい危機感や悲観論を信じて自暴自棄的な集団自殺に突っ込むことだという。

 本書の論点は多岐にわたっており、かつ全体を体系立てて展開しているわけではない。したがって、内容は精粗まちまちな印象を受けるが、そういう見方ができるのかと驚くところがあちこちにあり、新鮮だった。

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2009年5月20日 (水)

厚生労働省の分割

 麻生総理大臣が巨大すぎる官庁、厚生労働省の分割を言い出した。もっともな感じがする。

 舛添厚生労働相といえば、ついこの間まで、いわゆる派遣切りなど非正規雇用の問題で毎日のようにメディアに登場していた。それが、最近は、新型インフルエンザの国内患者発生で、連日、テレビなどに映っている。派遣労働の制度改正云々はどこかへ追いやられたみたいだ。

 厚生労働省は省庁再編で、旧厚生省のほとんどと労働省とが一緒になった。社会保障関連の業務や予算が急速に増えているし、雇用不安で労働関係の業務も拡大している。職員数は一般会計、特別会計を合わせ約3万8千人。財務省、国土交通省、法務省に次ぐ大所帯だ。しかし、一般会計歳出予算では、25兆円余と断然トップだ。国債費や地方交付税交付金等を除いた一般歳出が52兆円弱だから、半分を厚生労働省が占めている。しかも、社会保障関連予算は年々1兆円ぐらいは増えるといわれているから、カネづかいの面でみると、霞が関の中で、群を抜いた巨大官庁である。

 それを1人の大臣がみるなんてことは不可能である。有能な舛添大臣であっても、国家予算の半分をきちんと押さえて国民のための行政を行なうことは無理である。

 したがって、麻生首相の分割をという指示は方向として正しい。ただ、思い付きで省庁再編を実施しようとしても、無理がある。どういう国にしたいのか、そのために、どういう行政組織にするのがよいかを詰める組織を早急に与党内に設けるのがいいのではないか。その際には、霞が関の全体を再編の対象にすることだ。政党のマニフェストづくりと結び付く話だ。

 ざっと霞が関をみたとき、行政組織再編のポイントはいくつかある。今後の人類の運命を左右する気候変動問題にきちんと取り組む省庁はどうあるべきか(エネルギー庁を経済産業省の下に置いていていいのか、森林保全を農林水産省の中に置いていていいのか)、中央集権から地方自治への転換を促すにはどうしたらいいか、産業官庁は集中したほうがいいのではないか(総務省にある旧郵政省の通信関連を経済産業省に移したほうがいいのではないか)、雇用・生活中心の省を新設し、問題となっている幼稚園、保育所を所管し、国土交通省の住宅行政もそこに移すetc。

 麻生首相に指示された与謝野大臣は厚生労働省の分割だけにとどめるつもりとか。“急ぎ働き”では、それも考えられるが、その場合でも、次を意識したプランが必要だと思う。 

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2009年5月17日 (日)

佐野眞一氏の鋭いメディア批判

 先週、ノンフィクション・ライター、佐野眞一氏が日本記者クラブで、最近の雑誌・新聞・テレビ報道について見解を述べた。「週刊新潮」が掲載した朝日新聞阪神支局襲撃事件実行犯の手記が全くのでっちあげだった件について、新潮社が被害者面して、きちんと反省せず、責任をとらなかったことを厳しく批判した。

 同社は心ある編集者が上に意見具申できないような体制下にあるとして、「東京のど真ん中にサティアンがあった」と評した。また「タイタニック号が沈むとき、阿鼻叫喚の声があがるはずだが、新潮社には、それがない。山一證券も、ダイエーもそうした声があがらなかった。皆、自分だけは助かると思っている」と語った。

 「週刊新潮」には福田和也、櫻井よしこの両氏がコラムを書いている。「福田和也の闘う時評」と「日本ルネッサンス」である。佐野氏は「2人とも、この問題を取り上げなかった。それは問題だ。新潮社のほうから取り上げないでくれということだったら問題だし、2人がそれを受けたとしたら、もっと問題だ」とも指摘した。

 講談社が出版した『僕はパパを殺すことに決めた』(草薙厚子著)は「供述調書の丸写しであり、三文物書きを信じた講談社は重大な罪を犯した」という佐野氏は、出版ジャーナリズムにおける編集者の劣化、即ち、人を見破る心眼が機能不全に陥っているのではないか、という趣旨の発言をした。

 編集者の劣化に関して、佐野氏は「脳みそがあせをかくこと」が必要だと述べたあと、新聞社がこれまで行なっている記者の教育・訓練では「まともな記者なら5年でだめになる」と言い切り、「子を亡くした母親のところとか、水俣病の患者のような、言葉を失うような現場に記者を叩き込むこと、そこで一からやり直させないといけない。さもないと、新聞も雑誌も将来がない」と語った。

 とことん、現場を歩き、かつ徹底的に資料にあたる佐野氏のエネルギッシュな著作には日頃から敬服している。今回の会見では、山谷のドヤ街について語ったのが強く耳に残った。「かつては山谷に行くと殺気を感じたが、いまは感じない。いまは五千人住んでいるが、うち、コンスタントに仕事にありつくのは百人。住人の65%は生活保護を受けている」、「山谷での最後は孤独死だ。日本の貧困はまだましというのは間違い。孤立感とワンセットになっている」と。

 佐野氏の話を聞いたあと、民主党の代表選挙の候補者の会見を聞いた。鳩山由紀夫氏が新代表に選ばれる過程の報道にも接した。自民党政治のひどさには絶望的な気持ちになることが多いが、「愛」がどうのこうのという民主党の鳩山新代表の言葉にも救いがなさそうに感じた。

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2009年5月13日 (水)

経団連の温室効果ガス中期削減目標についての意見

 ポスト京都議定書の国際的な枠組みと、それに対する日本の中期目標の設定が官民の大きなテーマとなっている。それに関して、日本経団連の意見と、斉藤環境大臣の批判が報じられている。政府の中期目標検討委員会が提案した6つの選択肢について、経団連の御手洗会長が最も温室効果ガスの削減幅が少ない第1案(2005年比4%減、1990年比4%増)を適切だという意見を述べたのに対し、斉藤大臣は「世界の笑いものになる」と批判したからである。

 日本経団連の見解は月刊誌の「経済Trend」5月号に詳しい(ホームページにも掲載)。それを通読すると、「京都議定書で日本は不公平で、不利な排出削減目標を押し付けられた。その轍は踏みたくない。最もエネルギー効率の高い日本が他国から排出権を買わなければならない不公平な目標には反対する」ということを主張しているように思う。そして、経団連は、国ごとに何%削減という目標を設定するというEUの主張とは違うセクター別アプローチの導入を求めている。

 しかし、経団連の主張には疑問を抱く。第1に、このままでは、地球環境問題というか気候変動問題が人類の近い将来に大変な危機を招来することはほぼ確実だという危機感がない。第2に、世界全体として、温室効果ガスの発生量をいつまでに、どのくらいまでに減らさねばならないか、という目標設定意識もうかがえない。

 そして、第3に、世界全体の削減目標を具体的に設定し、それを世界各国にどういう考え方、基準で割り振るか、かつ、その目標を受け入れてもらい、実行してもらうためにどのような対策を用意するか、というグランド・デザインが全くない(セクター別アプローチ自体は意味があるが、全体構想のパーツにとどまる)。経団連がいまなお受身的な、外圧的発想にとらわれているのは残念だ。

 経団連の言うように、日本はエネルギー効率が非常に高い。それなのに、さらに効率を高めようとすれば、コストは飛躍的に上がる。したがって、ほぼ一律の削減率を決めるようなことは日本の競争力を大幅に弱める。だが、日本は省エネ先進国だとして、他国にばかり温暖化対策を求めるのは、現実的に難しい。あえて、多目のハンデを背負って、技術革新などのパイオニアであり続けようという国の生き方もあるのではないか。

 6つの選択肢のうち、第1案は、既存技術や現状の政策の延長線上で効率を改善するというものである。経団連がこれをよしとするのは、日本企業のイノベーション意欲が失われたことを意味するのかもしれない。それならそれで、別の意味で大問題である。御手洗会長は世界同時不況で縮み上がっている経営者を叱咤激励してこそリーダーである。

 この時点で、斉藤環境大臣に批判されるような発言をするのではなく、エコ・カーをはじめとする日本企業の高い技術革新力をもっと評価し、産、学、官の協力でさらにそれを強化するというチャレンジの姿勢を打ち出していいのではないか。  

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2009年5月12日 (火)

松阪市の「借金時計」

 三重県松阪市のホームページに、1秒ごとに市の「借金」がいくら増減するかを表す「借金時計」が載っている。平成21年度は借金が14億円余減る見込みなので、珍しいことに「借金時計」は1秒につき借金が約46円減る表示になっている。

 同市はことし2月に、33歳と当時、全国で最も若い山中光茂新市長が就任した。同氏は市の財政がことし3月末現在で、一般会計が582億円の借金を抱え、特別会計、企業会計を合わせると1277億円にものぼる借金になっているため、歳出削減に努めている。

 ホームページの「借金時計」は、市民に財政状況に関心を持ってもらうとともに、市役所職員が常に借金を子供や孫たちに負わせていることを感じながら行政にあたるようにするためだそうで、情報量も多い。ここまで詳しいのには感心した。それに加えて、同市長は「市庁舎前に市債残高の状況を示す「借金時計」を設け、市民に借金削減への理解を求める計画」(日本経済新聞11日付け朝刊)だという。是非、実現してほしい。

 借金時計については、2006年10月3日および2008年9月11日に、このブログで取り上げたことがある。現在、財務省のホームページでは、1秒ごとに動くデジタルカウンター方式をとっていないので、やっていないのに等しい。高知県の借金時計も、県のホームページをのぞいたが、いまは見当たらない。したがって、国も都道府県も財政健全化のための「借金時計」を設けていない。市の段階では、松阪市が初めてではないか。

 本来、「借金時計」を設けて、国や地方公共団体に財政改革を行なうよう圧力をかけるのは、納税者の役割だと思う。この国では、情けないことに、納税者は、財政赤字が積もれば、結局、増税などの形で自分たちに降りかかってくるという問題意識、危機意識を欠いている。国民、住民に納税者の意識が乏しいからだ。

 だから、カネを使う政府自らが財政健全化を納税者に訴えるという珍妙な現象が起きる。せめて、日本では経団連会館(最近、新しい建物に移ったばかり)の前に「借金時計」を設置するという話があってもよかった。

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2009年5月10日 (日)

温室効果ガス排出の中期目標設定は行政任せではいけない

 2012年までの京都議定書のあと、温室効果ガス削減対策はどうあるべきか。年末のコペンハーゲンの会合に向けて、日本政府は2020年をターゲットにした中期目標設定の作業を行なっている。5月9日に地球環境戦略研究機関が催したセミナー「コペンハーゲンに向けて日本の中期目標はどうあるべきか」を聞きながら、感じたことを以下に。

①先に、政府の「地球温暖化問題に関する懇談会」の「中期目標検討委員会」(福井俊彦座長)が6つのシナリオを報告した。技術、助成策、規制、税制などのいろいろな組み合わせによる積み上げで計算したものである。だが、「どういう目標を立てるかまで外に丸投げした」(末吉竹二郎氏)と評されるように、気候変動という人類が直面している最大の問題に対する国家の積極的な取り組み姿勢が感じられない。これではコペンハーゲンで日本が世界を引っ張っていくどころか、孤立化しかねない。またまたNPOから“化石”と評されるかもしれない。

②温暖化問題はこれからのおよそ10年間に温室効果ガスの排出量をピークアウトさせないと、突発的にどんな異常事態が起きるかわからないという。いかんせん、そうした恐怖感を日本の立法府の政治家は持っていない。政治家は、将来の世代のために、日本をどうするか、という問題意識をを欠いている。したがって、温暖化が進めば、将来の世代に大きなつけを残すのはほぼ確実だが、行政府の立場としては、国民のコンセンサスがない以上、日本の国民・企業に過度の負担を強いる政策はとりにくい。

③日本の企業には、まだ温暖化対策を負担としかとらえないところが多いが、西欧などには、今回の経済金融危機を機に、グリーン・エコノミーをめざそうという企業が相次いでいるようだ。そうした企業は、リスクはチャンスでもあるという複眼的思考に立っていて、国が削減目標の設定やその実現のためのスキームを早く設けることを歓迎しているという。そういう変わり身の早さを日本の企業も得意としていたのになあ‥‥。

④検討委員会がまとめた6つの選択肢は基本的には技術進歩と、それを取り込んだ製品の普及策(設置義務付けや税制優遇・補助金など)がほとんどである。これまでの資源・エネルギー多消費型および経済成長優先の経済・社会・生活構造を基本的に保持するという前提に立っている。しかし、有限の地球資源のもとで、技術革新だけで気候変動のもたらす影響をなくしたり、適応したりすることは難しい。ライフスタイルの抜本的見直しやクルマから自転車へシフト、などが必要ではないか。今回の選択肢では、国民の多くは地球温暖化に対して、正しい理解と対策の重要性を認識しないままに終わるのではないか。

⑤6つの選択肢は経済モデルを使って計算したものだが、そのモデルについて、いくつか問題点があると知った。モデルは過去のトレンドをひきずっている。経済を大きく転換させるべきなのに、新たな政策の導入(例えば炭素税の導入)や内発的技術革新効果がモデルには反映されていない。また、主要な産業の生産量だとかが以前のままに固定されているので、経済金融危機の激変を踏まえた結果にはなっていない。そうした問題点があるにもかかわらず、6つのうちからどれかを国の方針としてコペンハーゲンで表明することになる可能性が高い(民主党政権に替わったら違うかもしれない)。

⑥ETC車なら千円で高速道路走り放題とか、凍結していた道路建設計画を復活したりとか、目下、日本国政府は国債大量発行で大盤振る舞いに狂奔している。いずれにせよ、このままでは、「環境立国」の名がすたる。

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2009年5月 7日 (木)

世界的な自動車再編劇の進行

 イタリアのフィアット社が、破産した米国のクライスラー社を手に入れようとしている。フィアットは米国GM社の欧州子会社であるオペル社をも買収しようとしている。欧州の自動車産業の中で、どちらかといえば競争力が劣るとみられていたフィアットが、米国ビッグスリーの危機をチャンスに世界的な主要乗用車メーカーに飛躍しようという挑戦である。

 中国の吉利汽車(本社は香港)もGM系列のサーブ社(スウェーデン)を買収しようとしている。吉利は先に米フォード・モーターズ社の傘下にあるボルボ社(スウェーデン)の買収をめざしたが、色よい返事がなかったといわれる。BRICSの中でもめざましい経済発展をとげつつある中国、インドのうち、一足先に、インドのタタ・モーターズ社が昨年、英国のジャガー社およびランド・ローバー社をフォードから買い取っている。米欧日の自動車メーカーが中心だった世界の自動車産業地図が塗り替わり始めた。

 ドイツでは、ダイムラー社とBMW社が共同購入によるコスト引き下げなどを目指して提携関係に入ったし、フォルクスワーゲン社は大株主のポルシェ社との統合を発表した。

 このように、世界の自動車産業は大掛かりな乗用車メーカー再編成の波に洗われている。その背景には次のような事情がある。第1に、世界同時不況で先進国の自動車販売が極度に不振に陥ったままであり、しかも自動車販売金融もあって収益的にも資金繰り面でも苦しいメーカーが多い。そのため、政府の金融支援などが米、独などで行なわれている。日本でも、日産自動車などが販売不振で資金難に陥り、日本政策投資銀行から融資を受けたりしている。

 第2に、これとは対照的に、中国、インドなどでは自動車に対する潜在的な内需が強く、タタが発売した超小型車「ナノ」のように注文が殺到し、売れ行きが好調なメーカーもある。それに、これらの国のメーカーはかつての日本の自動車産業発展期と同様に、国内、海外での事業拡大志向が強い。

 第3に、先進国では、昨年の石油の急激な値上がりや、地球温暖化問題を意識する消費者の増大に伴って、小型車へのシフトやハイブリッド車など環境対策車の選好が進行している。米国では電気自動車や燃料電池車への関心が高まっている。やたら石油燃料を食うSUVのような車を収益源とする自動車メーカーのビジネスモデルは過去のものとなりつつある。

 世界同時不況からいつ、どのような形で経済が回復するか、まだわからない。景気が回復しても、先進国の乗用車需要は以前の7、8割にとどまるのではないかとの見方が強い。また、企業買収や合併は企業風土の異なるもの同士なので、成果が出るかどうか、出るとしても年月がかかるだろう。ただ、中国、インドといった後発工業国のメーカーが世界の乗用車供給に大きなシェアを占めるようになるのは確実と見てよかろう。

 ところで、現在の世界的な自動車産業再編劇に日本の乗用車メーカーは参加していないようである。日産はルノーと一緒に動く可能性はあるが、それ以外は受身にせよ、話題になっていない。欧米の外資を買収し、使いこなすという点で、日本の企業は中国、インドの企業よりも遅れていると言うべきか。 

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2009年5月 3日 (日)

「日本国際賞」受賞者、デニス・メドウズ博士の講演から

 ローマ・クラブの報告『成長の限界』(THE LIMITS TO GROWTH)のプロジェクト・リーダーを務めたデニス・メドウズ博士が2009年の「日本国際賞」を受賞した。受賞のため来日した博士は4月21日、記念講演をした。その要旨を読んで、なるほどとうなづくところがいくつかあった。

・『成長の限界』の結論は爆発的な反応を起こしたが、批判者も支持者も同報告をきちんと読んでいなかった。いまだに、丁寧に読む読者はあまり増えていない。今日ですら、ほとんどの専門家に大きく誤解され、誤り伝えられている。

・いま、振り返ると、報告のタイトルを付け間違ったのだろうと思う。私たちは「物理的な成長には限界がある」ことを指摘したとして知られているが、それは本質的な論点ではなかった。私たちの貢献は「有限の世界で、成長重視の政策がどのように社会を揺るがす大きな問題状況につながるか」を語ったことだった。私たちが語ったのは、再生不可能な資源の量など地球の能力の限界についてである。

・「限界」は最終的な結論ではなく、最初に置いた前提だった。私たちは、地球がいかに豊かで大きかろうと、地球は物理的に有限なので、無限に物理的な成長を続けることは不可能だ、という理解から研究を始めたのである。

・人口の伸びや経済成長を規定している現在の政策は、本質的に幾何級数的なものである。したがって、世界の人口、エネルギー消費、物質フローはあっと言う間にそれぞれの限界にまで増える。成長は行き過ぎと崩壊を通して、間もなく突然終わる。

・現在の経済問題を解決するためのなりふり構わないお金のかかる政策は、かつての幾何級数的な経済成長路線へ戻そうとするものである。こうした政策は効果がないか、そもそも今日の問題を引き起こした制度や考え方を存続させて事態を悪化させる。根本的に異なる政策が必要なのである。 

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2009年5月 2日 (土)

植物に学ぶ

 藤棚から垂れ下がる藤の花を見に行った。足利市と春日部市の2カ所で、いずれも有名なところだ。開花の期間中、上のほうから順次、花が開いて、そして閉じていく。下まで開いて閉じたら、終わりだ。開いている花には蜂が来る。でっかい熊蜂(?)が小さな花をしっかと抱くような姿はユーモラスでもある。

 植物に関する知識にはきわめて疎いが、たまたま目にした『身近な雑草のゆかいな生き方』(稲垣栄洋著、草思社、2003年)をパラパラと繰っていたら、興味深い文章に出会った。 

 「雑草がすむ世界に何が起こるかわからない。どんなタイプが成功するかは未知数なのである。だから、できるだけ、バラエティに富んだ才能を持った、多様性豊かな異能集団にしておくことが大切だとミズアオイは考えているのだ。」(「ミズアオイ  雑草が死滅する日」より)

 「雑草の姿をよく見ていると、どれもがみんな太陽に向かって葉を広げ、天を仰いでいることに気づくだろう。人間は横を向いて生きているが、雑草はつねに上を向いて生きている。うつむいている雑草などないのだ。」(「エピローグ――向上心のない生命はない」より)

 「すべての生命あるものは、より強く生きたいというエネルギーを持っている。そしてすべての生命が強く生き抜こうと力の限りのエネルギーを振り絞っている。向上心のない生命はないのだ。」(同)

 話が現実世界へと飛躍するが、そうだとすると、新型インフルエンザウイルスも懸命に生命の炎を燃やしているのだな、と思う。人間も負けてはいられない。 

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