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2009年6月25日 (木)

「足利事件」と「裁判長のお弁当」とを考える

 1990年に起きた幼児殺害事件で有罪とされ、無期懲役が確定し、服役していた菅家利和さんが最新のDNA鑑定の結果、無罪であることが明らかになり、釈放された。こんな無茶苦茶なことがどうして起きたのか、がきちんと検証されなければならないが、先だってブログで紹介した東海テレビのドキュメンタリー「裁判長のお弁当」を見たときに感じたことを書く。

 このテレビ放送によると、地裁の裁判官は、かつては必要とあれば、自ら事件の証拠調べをしていた。しかし、近年は担当件数が多すぎて、それをしなくなった。結果として、裁判官はもっぱら調書などの書類から判断するという。朝から晩まで、書類を読むことが多いわけだ。

 ところで、警察・検察が起訴した刑事事件はほとんどが有罪となっている。自白と証拠(物件)に基づいてがっちりと構築された書類からは、すぐれた裁判官といえども、被告が無罪だという結論にはなかなか達しようがない。もちろん、裁判官は被告の弁護側の書類をも読むが、それはもっぱら量刑の重さを決めるのに影響するのではないかと思う。

 したがって、検察が起訴した事件はわざわざ裁判官が独自に証拠調べするまでもなく有罪だという思い込みが裁判官にひそむようになっていてもおかしくない。テレビを見てそう思った。

 先ごろ、最高裁を見学した。そのとき、最高裁判事の一人に話を聞くことができた。その人の仕事も、ほとんど書類を読むことだった。二、三十センチにも及ぶ書類の束がいくつも机上にあり、それらを同時平行的に読んでいるということだった。最高裁と地裁とは機能が違うから、単純な比較はすべきでないが、常時、何件も抱え、それらの書類に取り組んでいるのは同じだ。それだけに、捜査段階を担う警察がどのように被告が犯人であるという確証を得るにいたったかというプロセス自体についても、それが適切だったかどうか、思いをはせることが裁判官には求められるような気がする。

 冤罪の発生を防ぐには、自白を強制することがないように、取り調べの録画、つまり可視化が必要である。また、裁判員制度により、裁判官の書類偏重を少しでも是正できるのではないかとも思う。

 「裁判長のお弁当」は忙しい裁判官の日常を描いていたが、裁判に新たにかかる件数は時代によって増えたり減ったりしている。03年から07年までだと、民事・行政、刑事などはかなり減っている。そうしたトレンドが何を意味しているか、また、裁判官の仕事にどのような影響を及ぼしているか、などを知りたいものである。

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