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2009年8月29日 (土)

もし麻生首相が早期解散していたら

 歴史に「if」(もしも)はない。でも、もしも、麻生太郎氏が昨年9月に総理大臣に就任して、すぐに衆議院解散に踏み切っていたら、どうなっただろうか、と思ってしまう。

 明日の総選挙の結果はおそらく民主党の歴史的な大勝、自民党の壊滅的な敗北になるだろうが、昨年10月に解散、総選挙を実施していたら、自民党と民主党とは相当に接戦だったのではないか。その意味で、自民党の多くの議員は、解散を先延ばしにしてきたことをものすごく悔やんでいるような気がする。麻生首相も内心では同じ思いを抱いているのではないか。

 しかし、リーマン・ブラザースの破綻などで世界的な金融危機が始まっていたときに、麻生総理大臣が解散、総選挙による政治の空白、停滞を避けて、次々に経済対策を実施したことは、日本経済や世界経済にとってよかった。

 人によっては、麻生首相とその取り巻きは世論調査などから、利あらずと見て、解散を先へ先へと延ばしたにすぎないと言うかもしれない。そのあたりは確かなことはわからない。だが、経済対策の内容については納得できないものもあるにせよ、解散を先延ばしにしてきた麻生首相の決断は、歴史的にみて、国民経済にとって適切な選択だったと評価されるのではないか。

 また、自民党を壊すということで誕生した小泉内閣がなしとげられなかったことを、麻生政権は望んだことではないが、結果的に、実現することになる。総理大臣にふさわしい見識や抱負経綸を持ち合わせない、浅薄な人気しかない麻生太郎氏を自民党の総裁、日本国の総理大臣にまで押し上げた自民党の実態に、国民は次第に気付き、あきれはてたからである。

 民主党が政権を握っても、そんなにいいことがあるとは思われない。しかし、政権交代にはとても大きな意味がある。麻生首相が昨年10月以降、早期解散、総選挙に踏み切らなかったことは、結果的に、日本政治の一歩前進に貢献したと言えるのではなかろうか。

 自民党の歴史的大敗が明らかになると、おそらく麻生氏は責任をとって自民党総裁をやめると表明するだろう。早ければ明日にでも。そのあと、自民党が敗北の原因をどこまできちんと追及するかーーそれが自民党の再生いかんを決定づける。

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2009年8月28日 (金)

自転車は選挙の時だけ乗るものではない

 国政選挙に限らないが、選挙の立候補者が自転車に乗って選挙民のところを走るのは昔から。おそらく、そうした候補者は選挙のときだけ自転車に乗るのだろう。このように、たまに乗っている分には、自転車は狭い道にも入れるし、便利である。

 しかし、日常、自転車を使っている私にしてみると、東京のあちこちの繁華街とその周辺では、いつもひやひや、はらはらのしっぱなしだ。狭い歩道に自転車がずらーっと停められていて、残された狭い部分を歩行者と自転車が行き交う。極端に狭くなっているところでは、歩行速度がゆっくりの高齢者がいると、うしろに人が並んでしまうこともある。また、先日は、年配の女性が、うしろからさっと追い越した自転車のハンドルにぶつかって痛がっていた。ぶつけたほうは知らん顔で行ってしまった。

 東京都区内など、歩行者および自転車の集中する都市部では、一見すれば、いかに自転車の不法駐輪が歩道の往来を妨げているか、誰にもわかる。しかし、この大量不法駐輪を一掃し、自転車も歩行者も安心して通行しやすい道路に直すという話は聞いたことがない。いまの選挙運動で走り回っている某候補者が「地元の出身で、地元を誰よりも愛しています。医療、介護など困ったことがあれば、何でも言ってきてください。○○はそれを解決します」などと宣伝カーで言いつつ走っていたが、本当に、この自転車の不法駐輪問題を解決してくれるなら、絶対に○○に投票する。

 自転車に乗って選挙運動する候補者も、自動車に乗って走り回る候補者も、自転車それ自体の良さは知っているはずだが、不法駐輪で庶民がどんなに困っているのかがわかっていないとしか思われない。

 極端に聞こえるかもしれないが、自動車道路を狭くしてでも歩道を広げるとか、道路沿いの商店などに駐輪場所の確保を義務付けるとか、あるいはJRなど鉄道の線路の上に駐輪場を設けさせるとかする一方、不法駐輪を厳しく処罰することが必要かもしれない。その関連で自転車の登録制度を導入することも考えられる。

 ところで、ドイツは毎年、徒歩と自転車の利用を促進する「思考を変えて」というキャンペーンを行なっているという。実際には、選ばれた自治体が広告、ラジオのコマーシャルなどを行ない、その費用を連邦政府が環境予算の中から負担するというもののようだ。

 同国では、交通部門から出るCO2は国全体の5分の1を占める。そこで、自動車利用と比べ、近距離は歩くか、自転車を利用したほうが早いことをキャンペーンして、自動車の利用を減らそうとしている。

 このように、自転車の利用は望ましいことだ。そうした観点からすれば、日本においても、自転車利用は本来、歓迎されるべきものである。しかし、現実は上記のように、歩道の交通を困難にし、目の敵にされてしまいがちだ。

 政治はこうした問題にこそ、きちんと答えを出すべきだろう。国政においても、自治体の議会、行政においても。私の家の近くでは、ときどき、自治体のトラックが来て、不法駐輪の自転車やバイクを撤去するが、その数は知れている。そんなことでは、うんかのごとく不法駐輪している現実に対しては何の解決にもならない。 

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2009年8月24日 (月)

政見を見聞きするにつれ、投票に行く意欲がそがれる

 選挙運動が本格化して感ずることがいくつかある。

 歯が浮くという言い方があるが、あれもします、これもしますと政党の立候補者が次々にぶつ政見放送を見た。こっちの水は甘いと、国民にカネをばらまくようなことばかりを約束していたら、日本の国民をスポイルさせないだろうか。

 生き馬の目を抜く世界の中で日本国の利益をしっかりと守るためには、世界の現実を国民に伝え、我慢すべきは我慢するように説得するぐらいでないとまずい。いまの有権者に気に入られるようなおいしいことづくめの政策を行なっていたら、国の財政は破綻するしかない。未来志向の欠けた認識しかない政党間の政権争いは国を滅ぼすおそれすらある。

 天然資源に乏しい日本は人的資源しかない国だといわれてきた。その言い方はいささか誇張されているとはいえ、日本国は外国と輸出・輸入や資本交流を盛んにして、いまのような豊かな生活水準を享受できているのである。それも平和であるという留保条件付きである。したがって、少なくとも、周辺国と経済、安全保障、人的交流などで仲良くする努力を怠ることは許されない。

 そして、主要先進国の1つとして、世界の極端に貧しい人々を支援し、軍事的な争いをなくすために貢献する必要がある。そうした点が総選挙の争点になっていない。主要政党はあまりにも鎖国的な発想に陥っている。

 自民党は今回の選挙で当選者が100人を割る可能性が相当あるらしい。どうやら小泉改革と同様、自民党をぶっつぶすという地殻変動が起きているのだと思う。自民党の候補者にしてみれば、生きた心地がしないだろう。しかし、麻生首相はじめ自民党の幹部はばらまきなどを取り上げて民主党を批判するだけで、地殻変動がなぜ起きたか、反省すべき点は何か、という知的作業を全然していない。

 自民党支持でうまい汁を吸える関係者だけはあくまで自民党についていくだろうが、それ以外の人たちを引き付ける体系立った政策を自民党が打ち出していない、というか、打ち出せないところに同党の決定的な欠陥がある。これでは、野党になっても、与党・政府を攻略し、また政権の座に復帰するだけの力を持つのは難しい。自民党解体の方向がうすぼんやりとだが見えている。  

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2009年8月20日 (木)

こんな商売ありか?

 最近、携帯電話の折り曲げる部分が少し壊れた。電話会社の直営店に行って相談したら、修理は見積もりによるが、1万5千円ぐらいかかることもあるという。少なくとも5千円以上はするとか。店の前には「0円」という大きな表示があったように、買い替えのほうが安くつくので、買い替えることに決めた。

 ところが、いままでのサービスを継続できる買い替え対象機種は4つしかないとのこと。その中から選ぶことにしたら、在庫は1種類しかないという。4つのうちで、一番高い1万1千円の機種だ。でも、これまでに貯まったポイントを使うと4千5百円安くなるというので、それでお願いすることにした。

 そうしたら、今度は各種サービスをまとめた一枚紙をみせられ、「購入する場合、この6つのサービスに1カ月だけ入っていただきます」と言う。「入らなければいけないのか」とたずねたら、「強制ではありません。ただ、入っていただけなければ、1万1千円の機種の値段が4万1千円になります」との返事だ。6つのサービスの1カ月の料金はちらっと見た印象では2千円するかしないかだった。「お好きなほうを選んでいただけば結構です」とはいうが、3万円と2千円のどっちをとるかは誰が考えても明らかである。お客の選択を尊重するふりをして、要らないサービスを押し付け販売するのは不公正取引だろう。

 後日、この直営店に行ったとき、きちんと応対する店員だったので、「あなた自身、どこかで買い物をするとき、不要なものを併せて買ってくれ、と言われたら、納得できないでしょう。携帯電話で、どうして1カ月だけ6つのサービスに入れ、というのか。その理由を教えてほしい」と訊いた。だが、その店員は、わからないと答えた。うるさい客だと見て、適当にあしらったのかもしれないが、いずれにしても、客の不信を買う商売のやりかただ。

 携帯電話サービス事業の料金体系は極めて複雑で、一般の人には何が何やらさっぱりわからない。説明書はあれこれ書いてあるが、店員に教えてもらわないと、理解不能。申込書も、細かい文字が多く、読んでもチンプンカンプン。結局は店員のお勧めの通りにし、申込書も名前のところ以外は店員に書いてもらっている。意地悪い見方をすると、わざとわかりにくくして、うまいこと商売しているのではないか。どこの携帯電話会社も。

 民営化で、この携帯電話サービス会社を創設した人は、もともと有名な電子部品企業を興した人である。名経営者の誉れが高く、全国に展開している何とか塾で全国の中小企業の経営者や幹部を育成している。かつての松下幸之助みたいな人だ。いまは携帯電話サービス会社の役員でも何でもないが、同社の経営者や社員は彼の経営思想を少なからず引き継いでいるのかと思っていた。

 話は変わるが、パスポートの期限が切れたので、申請書類を提出しに旅券事務所に行った。申請書には顔写真を貼るが、その写真を事務所の入口の横にある店で撮ってもらった。2枚でカラー1700円、白黒1500円だった。ネガはなし。旅券事務所の入口のすぐ横に2つの店があったが、料金は同じだった。

 私の疑問は「どうして、こんなに写真代が高いのか」だ。駅構内などにある自動写真撮影装置だと700円ぐらいなのに、どうして倍以上の値段になるのか。ぼろもうけの商売である。もしも、旅券事務所が駅構内と同じように自動装置を置けば、申請者の費用負担は軽くなる。それに、装置を置かせることによる収入が事務所に入る。事務所がそういうことをほのめかすだけで、写真業者の価格は大幅に下がること必定である。

 誰がみても高過ぎる料金の商売を政府がやめさせるというのは穏当ではない。だが、パスポートを作成するために国民が支払う費用に無関心なのもまたよろしくない。事務所の前に写真撮影勧誘の客引きが何人もいるのをみると、旅券事務所と写真業者とがつるんでいるのではないかとすら一瞬思ったことを付け加えておく。

 日本の社会や企業活動には、まだまだアンフェアなことが多い。年をとり、ひまになってくると、余計、そうした事柄に気付く。 

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2009年8月18日 (火)

佐伯啓思著『大転換 脱成長社会へ』から

 きょう18日、総選挙の公示が行われた。有権者は何をものさしとして投票にのぞむか。一方、歴史的な視点に立つと、日本の政治は、現在の日本の立ち位置をどうとらえ、どのような進路をとることを求められているのか。

 たまたま読んだ佐伯啓思著『大転換 脱成長社会へ』(NTT出版、2009年3月刊)は、政権選択の選挙などといった目先の争点を超えて、いまの日本の経済社会が置かれた状況を歴史的にとらえ、日本の進路を、成長中心主義、競争中心主義から脱成長社会、脱工業社会へと大きく転換すべきだと主張している点で刺激的だった。そういう目でみると、与野党を問わず、日本の政治家・立候補者は皆、国家のありよう、行く末を構想する哲学、思想といった基本的な素養を欠いているように思える。

 同書によると、大量生産・大量消費で成長した経済社会では、ものの充足が進み、豊かになる結果、絶えず欲望を刺激し、成長するという経済システムは活力を失っていく。そこで、労働、資本などの生産要素までも市場化し、そこで利益をあげようとする。それを著者は構造改革と言い、アメリカ型のグローバル市場競争主義への適応だと指摘する。

 だが、労働、資本、自然資源、知識の4つから成る生産要素はもともと「社会」、「自然」や「人間」の中にある社会的な存在物であり、市場で売買することは難しい、あるいは望ましくない。それにもかかわらず、資本主義の原理に即してそれらをも商品化して市場原理にゆだね、成長主義を続けるようとすると、行き過ぎた価格・コスト競争で「社会の基盤」を壊しかねない、つまり社会が不安定化するとみる。

 社会の安定性は「急激な変化、あまりにもテンポの速い生活、過度な精神的プレッシャー、過剰な情報や、めまぐるしい利潤機会、大きな価格変動、雇用の不安定性などとはなじまない」。それらから社会を防衛しなければならないという。

 これに関連して、著者は、市場経済は、生産要素を中心として「社会」や「自然環境」という土台が安定して初めて市場が正常に作動することができるのだと強調する。

 このように、先進国の産業主義的な成長モデルが限界に達した今日、効率性、能力主義、競争といった産業社会の価値観を転換することが必要である。そして日本社会の特質に基づき、「公共計画」によって新しい社会インフラを整備し、生活の質を問うような社会にしていくべきだという。

 そこでは、医療、教育、自然環境の保全、都市環境の整備、安全性、資源、文化的資産の充実などといった社会基盤の確保が優先されるとのこと。

 著者は最終章で、脱成長社会へのモデルを日本が世界に提示する資格があり、そうすべきである、そのことが日本の国益だとも述べている。ただし、それには「政治力」が必要だが、ポピュリズムとスキャンダリズムへと流される現在の日本の政治には無理だと悲観的である。だから、まず、私たちが「観念」や「価値」を転換することから始めなければならないと締め括っている。

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2009年8月16日 (日)

「鎮魂」の造形美術展

 東京・銀座で開かれていた「64年目の夏 鎮魂のニューギニア」と題する個展を見た。太平洋戦争時、ニューギニアの激戦地で戦い、何度も負傷しながらも、奇跡的に生き残った三橋國民氏(造形美術家、88歳)が、生きて帰ることのなかった戦友たちの無念さや戦争の悲惨さを伝えるために制作した絵画や彫刻などが展示されていた。

 ニューギニアってどこ?と思う人もいるだろうが、日本は太平洋戦争でいまのインドネシア、オーストラリア、タイ、ビルマ(ミャンマー)などにまで戦線を拡大した。三橋氏はジャングルで戦い、分隊40人の中で2人しか生還しなかったうちの1人という。

 太平洋戦争が終わってから64年。いまだに日本兵の数知れぬ遺骨が故国、日本に帰ることなく、戦地だったところに埋まったままという。三橋氏の作品は現地で死んでいった戦友の鎮魂とともに、二度と戦争をしてはならないと強く訴えているように思えた。

 この個展を見て、2004年11月に静岡県立美術館で見た「香月泰男展」を思い出した。香月は、敗戦後、ソ連によって極寒の地、シベリアの捕虜収容所に送られ、強制労働をよぎなくされた。シベリアの強制労働と餓えや寒さでたくさんの旧日本兵が死んだ。1947年に日本に帰った香月は、強制収容所で無念の死をよぎなくされた人たちの鎮魂のため、多くの絵画を描いた。三橋氏の作品と香月の作品とは、表現の仕方に違いはあるものの、訴えてくるものは共通している。

 銀座4丁目角すぐの鳩居堂ビルの4階で開かれていた個展を見て、エレベーターで下りたら、表通りはカラフルな服装をした人々が行き交っている。展示の世界と違い過ぎて、一瞬とまどいを感じた。

 戦争体験のない人の方が大半となり、メディアでも、戦争の悲惨さを強く云々するのは毎年8月だけになってしまった。また、あいまいにされた戦争責任の問題を取り上げる報道もあるが、政治的・社会的に徹底追及する動きにはならない。きちんと総括してこそ、反省を生かし、二度と同じ過ちをおかさないようにすることができるのだが、そうはしないのが日本流なのか。

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2009年8月15日 (土)

構造改革とは何だったのか

 民主党、社民党、国民新党の共通政策が発表になった。ここでも、「小泉内閣が主導した市場原理・競争至上主義の経済政策は、国民生活、地域経済を破壊し、雇用不安を増大させ、社会保障・教育のセーフティーネットを瓦解させた」と、いわゆる構造改革を槍玉にあげている。

 小泉政権が推進した構造改革という問題提起は、そんなに悪いことだらけだったのか。記憶が定かでないので、佐和隆光著『日本の「構造改革」』(岩波新書、2003年)を読み直してみた。以下、私なりの要約である。

 日本の市場経済は「人にやさしい」という利点を持つが、不自由、不透明、不公正に過ぎる。そこで経済の仕組みを自由、透明、公正なものに作り替えるのが同氏の定義にいう経済構造改革である。もっとも、自由、透明、公正の三つの公準がトレードオフの関係になることもあるから、どのように組み合わせるかが問われることもある。そして、ポスト工業化社会に移行するためには、「否も応もなく、日本型制度・慣行すなわち日本の構造を、抜本的に改革せざるをえない」としている。

 しかし、構造改革は必要にして不可欠だが、それだけでは十分ではない。なぜなら、市場改革一本槍だと、「倒産、失業、所得格差の拡大、公的な医療・教育の荒廃、犯罪率の高まり、将来への「不安」による自殺や精神疾患の増加、勤労意欲の低下、等々の悪しき「副作用」をもたらす」ので、弱者に住みづらい社会になるという。したがって、構造改革と同時に、平等な福祉社会をつくる「第三の改革」を実行すべきだと主張している。

 市場主義改革を最優先にすると、失業など「排除」される人々が生まれる。したがって、働く人の技能を高めること、すなわち、労働力の「質」の向上という「ポジティブな福祉」を目指すべきである。それが「第三の改革」で、経済成長に貢献すると指摘する。

 「ポジティブな福祉」の役割は、「自分という人的資本への投資の原資を提供すること」である。それはまた、福祉にお世話にならねばならない人をできるだけ少なくするために福祉を用いるのが、福祉財政の破たんを未然に防ぐ最善の策だという考えに基づく。

 著者は、小泉政権が進めていた構造改革は「財政改革に尽きる」と言い切っている。だが、「日本の構造はインサイダーにとっては快適きわまりないが、アウトサイダーにとっては不公正きわまりない」として、本来の構造改革の必要性を主張してきたという。そして、構造改革に伴う痛みを抑えるには、好景気のときに構造改革を実施すべきだと述べている。

 ところで、最近、「セーフティネット」という言葉にお目にかかるが、本書によると、サッチャリズムの福祉政策を指すのだそうだ。すなわち、「能力の乏しい人、生産性が低いような人には、働いてもらう必要はない。最低限の生活費を国が支給するから、セーフティネットの上で惰眠をむさぼっておいてもらったほうが、社会的コストは安くつく」というものだという。おもしろいと思った。

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2009年8月12日 (水)

マニフェストの受け止め方

 総選挙の本番入りを前に、各党のマニフェスト(政権公約)が争点になっている。8月9日には21世紀臨調が主催したマニフェスト検証大会で、9つの団体が自民党と民主党のマニフェストに対する評価(点数)を発表した。9つの団体は、民間の各種シンクタンクのほか、経済同友会、全国知事会、連合などである。

 その中には、明らかに一方の政党とつながりの深い組織があったりするので、評価点数をそっくり鵜呑みにはしがたいが、概して点数が低いのは、マニフェストの中身に問題があるからだろう。すなわち、日本の今後を占ううえで重要な論点が欠けているとか、全体として整合的な政策体系になっていないという点である。さらには、何をいつまでに実現する、それに必要な財源はどうやって調達する、といった工程表を示さずに、やたらおいしい約束を振りまいていることもある。

 マニフェストを修正する政党も出てきた。一部の公約について批判の声が出たので、当初のマニフェストにうたっていた政策を引っ込め、公約を変更したわけである。絆創膏ではあるまいに、政党の公約をさっさと貼り替えるということは、党内で十分に検討したものではないばかりか、そもそも、きちんとした政策体系が欠如していることを意味しよう。

 自民党も民主党も、相当に細かい分野にわたって公約を書き連ねている。だが、細かく書けば書くほど、選挙民一人ひとりにしてみれば誰に投票するか、どこに投票するか、悩むことになる。この問題については○○党の政策がいいが、あっちの問題は△△党の政策のほうがいい、ということになるからだ。

 マニフェストの書き方の問題でもあるが、日本が直面する主要課題(少子化、社会保障、財政改革、安全保障、企業の国際競争力強化、地域主権など)についての大まかな改革方向を示すのが先ではなかろうか。それらのいずれも、一気に方向転換すれば混乱や摩擦を引き起こす。したがって、民主党が政権の座についても、拙速に舵を切るのではなく、細かく政治の実情を把握してから、マニフェストの実施に着手するぐらいの慎重さが望ましい。

 いままでの長い自民党支配がもはや賞味期限も消費期限も過ぎたことは多くの国民の実感するところだろう。マニフェストの中身のよしあしを超えたところで国民は自民党離れをしてしまっていると言えよう。いまも、政策や実行力などとは関係のない見てくれだけで好印象の候補者にムード的に投票する国民もたくさんいるだろうが、二世議員の多い自民党には、見てくれで投票したい候補者すら少ないのではなかろうか。

 民主政治において、マニフェストの果たす役割は大きい。しかし、マニフェストを過度に重視すると、政権の座に就いたとき、重要な情勢変化に即した政策の変更ができなくなる。それに、野党にしてみると、政権を握って初めてわかることが多々ある。マニフェストに反する政策をとることが国民にとってよいことになるかもしれない。

 ことしはマニフェストという言葉がメディアにしょっちゅう登場している。だが、マニフェストとは何かを知らないままにマニフェストが一人歩きすると、国民の不信を招きかねない。政党も、メディアもマニフェストと言う場合、もっと慎重でありたい。

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2009年8月10日 (月)

市町村で平均年収が日本一の多摩市

 8月7日付け日本経済新聞朝刊の地域版に、「多摩の断面」というカット付き囲み記事が載った。東京都下、多摩26市の自治体職員の平均年収が東京都23区平均より27万円高いと指摘し、「多い地域手当や独自制度」、「お目付け役不在が影響」という見出しがついている。

 日経調査(2008年4月現在?)によると、都内自治体で平均年収が高いのは、1位多摩市、844.5万円(平均年齢46.2歳)、2位武蔵野市、798.3万円(同43.3歳)、3位八王子市、795.1万円(同45.3歳)、20位の目黒区でも748.3万円(44.8歳)である。ちなみに全国の市区町村ランキングでみると、多摩市は1位、武蔵野市は4位、八王子市は5位だという。目黒区は47位に位置する。

 多くの市区町村の公務員平均年収は国家公務員のそれより高いといわれる。この記事では、実際に資格が上がらなくても、一定年限が経てば上の資格の給与を支給する「わたり」、給与表の級を増やして高い給与を支給する「足伸ばし」とか、地域手当を国の基準より多く支払うといったからくりを指摘している。

 そして、「国には人事院、都道府県や23区には人事委員会があるが、大半の市町村にはない」として、お目付け役が不在だと書いている。

 以下は私見だが、本来、市町村の議会・議員が行政をチェックすべきなのに、現実には、議会・議員は首長や自治体職員、すなわち「自治体政府」と渡り合うだけの力を持っていない。現実には、大半が単なる“翼賛会”に過ぎず、「自治体政府」からさまざまな便宜供与などを受けたりしている。

 また、ほとんどの首長は自治体職員(その背後に労働組合がある)の協力なしでは行政が進まないから、役人の言うことを受け入れがちだ。国政の官僚支配政治と似た状況が地方政治にも起きている。多摩26市の平均年収が高いのは、こうした公務員(および労組)天国を反映していると思う。

 問題は、地方自治体の住民が市町村の行政に対しても、また議会の活動に対しても、ろくに関心を示さないことだ。それが多摩26市の高い平均年収を許しているのである。国が地方政治に対して権限もカネも握っている弊害の現われだ。

 ところで、いま、総選挙のマニフェストで、自民党や民主党は主要な公約の1つに地方分権・地域主権を取り上げている。その1つが、地方財政が窮迫しているため、地方自治体に財源を移すというものである。だが、現実の地方自治体の行政や議会を前提にすると、自主財源が増えれば増えるほど、職員の給与引き上げなど、ろくなカネの使い方をしないのではないかと懸念してしまう。

 上から制度を変えれば、暮らしを大事にする地域主権の政治や行政が自動的に実現するわけではない。住民の草の根からの活動が広がって初めて、地域の問題を直視し、行政を住民本位に変えることができる。多摩市には、議会・議員の活動を監視する住民運動があるが、市民の参加や支援はなかなか広がらないらしい。でも、議会や行政を住民サービス優先に変えることができるのは、そうした運動しかないと思う。

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2009年8月 5日 (水)

旅行社のツアーに1人で参加した

 月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山に一泊二日で行くツアーに参加した。一人一室で宿泊できるので、一人で行ってみた。山伏の修行で知られる三山だが、初めてなので、見るもの、聞くもの全て新鮮な旅だった。ここでは、それに直接触れるのではなく、別の視点からの感想を記す。

 東京から福島(福島県)まで新幹線で行き、福島駅から湯殿山(山形県)まではバスで行った。そして近くの即身仏で知られる大日坊瀧水寺に寄ったあと、バスで蔵王町(宮城県)の遠刈田温泉まで行き、そこで泊まった。二日目は、バスで蔵王町から月山(山形県)に向かい、月山の八合目まで。そこからバスで下り、今度は羽黒山(山形県)に登った。三神合祭殿を訪れたあと、バスで少し下り、羽黒山の有名な五重塔まで歩いて往復。そのあと、バスで山形駅に。駅から新幹線で東京へ。とにかくバスに乗っている時間が長かった。

 夏場に客の少ない蔵王町のホテルは団体旅行の宿泊料金が安いのだろう。だが、湯殿山と月山は目と鼻の先なのに、片道だけで2時間も3時間もかかるホテルまで往ったり来たりするのは時間のムダ、石油のムダ、温暖化ガス排出増、そして参加者には疲労、と、いいことはない。高速道路ができ、バスが走り回るようになるのが合理的なことか、と疑問を抱く。

 神仏混淆から神仏分離へという明治政府の命令に出羽三山も振り回されたという。そうした苦難の歴史を初めて知ったが、かんじんの宗教関係者の現在はというと、いささか言動に問題があるように思えた。例えば、「かつてはチャリン、チャリンというお賽銭の音が喜ばれたが、いまはそんな音は喜ばれない(お札でないと喜ばない)」と露骨に坊さんが言う。また、先祖に供養するためのローソクを売っている一方で、火が灯ってまもないローソクを片っぱしから除去している。供養しようという参拝者の気持ちを逆なでするようだ。そうした事例を経験すると、宗教が露骨に商売人のようにみえてくる。

 今回の団体旅行は夫婦や親子などの参加者と個人参加の混成で、ほとんどが高齢者だった。男性の場合、個人参加だと知り合いがいないから、隣り合わせでも、同じテーブルを囲んでも、なかなか口をきかない。積極的に話しかける人がいないとなかなか座がはずまない。個人情報保護法の影響で、参加者の名簿も配られないから、名前も何もわからないという事情もあるのだろうが、日本人の社交性の乏しさを改めて実感した。

 夕食時、近くのテーブルの一つから陽気に話す男性の声が聞こえた。もっぱら一人だけのようだったが、聞こえたのは、「引退したあとは、ゴルフをしても、庭仕事をしても、時間があまって退屈する。やっぱり仕事をしていたときが一番充実していた」という言葉である。出羽三山ツアーに参加しても、やはり、現役で仕事をしていたときがよかったという思いが伝わってきた。元気な高齢者が多い。一律の定年ではなく、高齢者であろうと、能力、気力に応じて、社会貢献も含めて、働いてもらえる環境を整えることが政治や社会の課題だと思う。

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2009年8月 2日 (日)

パンチ力のない自民党のマニフェスト

 自由民主党の総選挙向けマニフェストが発表になった。「-→+ 改めます。+→++ 伸ばします。」、「日本を守る 責任力」が謳い文句である。良くないことは改める、良いことはもっと良くする、というメッセージらしい。わからないわけではないが、選挙民に訴えるにはパンチ力に欠ける。

 いままでの自民党政治は、良くないと批判されても、長年の選挙地盤を守ろうという族議員の保守意識が強く、結果として既得権益を維持する官僚主導の政治にとどまった。小泉政権はそうした自民党政治を変えようとしたが、小泉後の安倍、福田、麻生の三代の政権のもとで、ほとんど元の木阿弥に戻った。内外の政治・経済状況が大きく変わったにもかかわらず、党内には日本の政治を変えようとする問題意識や政治思想もなければ、改革を主導しようとするリーダー的な自民党政治家がいない。人材の枯渇が進み、政治の柔軟性は失われてきたままだ。

 したがって、にわか仕立てのマニフェストからは、本当に、この国が良くなるという印象を受けることはない。民主党に対抗して、似たようなバラマキをやる分、むしろ、自称、責任政党から逸脱しているように思える。自民党はどんな社会を目指す政党なのかが、よりぼやけてくるのである。

 民主党は政権を奪取できる見通しがついたいまとなって、外交・安全保障などで、いままで言ってきたことを翻すようになった。責任政党の立場を自覚し始めた現われだが、そうした言動が国民の政治に対する信頼や期待を損なう可能性も少なくない。

 主要二大政党は国民の暮らしをどうやって安定・向上させるか、そのためには経済の成長やアジアの中での国家安全保障をどう確保するか、などといった国政の重い課題に真剣になって取り組んでほしい。そうした課題について選挙運動で争ってほしいと思う。

 ところで、自民党は2005年の総選挙のマニフェストの自己評価を7月に発表している。それを見ると、A、B、Cのランク付けでAがかなりあるし、Bが一番多い。自己採点だから、甘いのも仕方がないが、自民党には「これだけ成果を挙げているのに、どうして国民が自民党から離れていったのか」をきちんと分析し、党再生の手掛かりを得ることを求めたい。

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