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2010年4月 4日 (日)

蚕・生糸をめぐって

 群馬県富岡市にある富岡製糸場を見てきた。明治維新後、日本製の生糸の品質を高め、最大の輸出品に育てたのは、国が富岡製糸場をつくったからである。世界遺産に指定されるか否かはさておき、富岡製糸場は日本が明治時代に、工業化・輸出立国の道を歩み始めた歴史を体感させてくれる。

 正門から真正面に見える建物は「東繭倉庫」で、歴史書や観光パンフレットなどに載っていておなじみのもの。太い杉の角材で骨組みをつくり、その間にレンガを積み重ねた「木骨レンガ造」で、繭の倉庫兼乾燥場である。繭から生糸を繰る繰糸場もそうだが、日本では全くつくったこともない建物や器械を導入して、着工からわずか1年半程度で操業にこぎつけている。外国人の指導・監督を受けたとはいえ、当時の関係者の意気込み、集中力には敬意を表するばかりだ。

 東繭倉庫も西繭倉庫も2階建てで、長さ104.4m、高さ14.8m、幅12.3m。2階は繭の貯蔵庫で、繭を乾燥させるという役割もあった。この大きな建物を見て、明治初期の人たちが驚嘆したのも当然である。

 上信電鉄の上州富岡駅から歩いて10分ほどのところにある。駅までのところどころに土蔵がある。富岡製糸場が栄えた頃に繁栄していた名残だろうか。街は見学客を除くと、ほとんど人通りがなく、商店街もまったく活気がなかった。地域の再生を、世界遺産に指定されることに賭けているような思いを感じた。

 上州富岡駅から高崎に向かって2つ目の駅が上州福島。そこで下車し、武家屋敷などのある甘楽町をサイクリングでめぐった。桜並木のある雄川堰あたりはびっくりするほど大きな二階家が並んでいる。かつて養蚕をしていた家である。富岡になぜ製糸場ができたか、の第一の理由に、養蚕が盛んで、原料蚕が確保できるから、とある。

 大きな養蚕農家で思い出すのは、先頃、世界遺産で知られる白川郷の合掌造りを見たときに聞いた話である。見学した和田家、神田家といった家はかつて養蚕農家だったが、同時に、蚕の糞を原料(の1つ)にして床下で煙硝(硝酸カリウム)を作っていた。火薬の原料である。それで財をなし、あのように大きくて立派な合掌造りの家を建てることができたのである。そこの案内人は「戦争ほどもうかるものはないから」と笑っていた。

 富岡製糸場の解説員は「蚕は無駄なものが何もないというように、すべて利用されている」と言っていたが、実はきなくさいところにまで活用されていたのである。 

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