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2012年5月21日 (月)

岩手県の被災地で感じたこと

 17~18日に岩手県の田野畑村から陸前高田市までと、すぐ南の宮城県気仙沼市を見てきた。多くの人が話したり、書いたりしているように、「百聞は一見に如かず」。そして、私たちが生存している地球・自然のすごさを実感した。人間は自然の前に、もっと謙虚でなければならないと改めて思う。

 盛岡駅から岩泉町を経て沿岸部に。まず島越で海辺に出た。島越漁港も島越駅も壊滅していた。田野畑駅はかろうじて残っていた。グリーンピア三陸みやこには田老町の住民が住むたくさんの仮設住宅があり、たろちゃん協同組合の店舗が3棟あった。田老町から、浄土ヶ浜、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市へと南下したが、津波に襲われたところは、ガレキが片付いていて、あちこちにガレキの山積みができていた。しかし、住居などの建設はおこなわれておらず、空き地がずっと広がっていた。

 ところどころ、市庁舎、ホテルなど鉄筋・鉄骨の大きなビルが激しく壊れたまま残っている。空き地に立って四方を見渡すと、はるかかなたまで見通せる。3.11までは、広大な土地に建物がびっしりと立ち、おおぜいの人々が住み、働いたりしていたなんてことが信じがたい。

 大船渡、陸前高田市などは大地自体が沈下したため、海からの水で道路が冠水しているところがある。

 水産漁業など産業の復興、および住宅・店舗などの建設は、地元住民の意思や、各自治体の方針、県、国の復興計画および支援がうまくかみ合わないと、具体的に動き出さない。被災から1年2ヵ月余も経っているのに、ガレキを片付けて山積みにするところまでしか復興が進んでいないのには驚いた。中央の政治も、地方の政治も、ろくに機能していない表れだろう。

 宮古市浄土ヶ浜も、昨年の大津波で大きな被害を受けた。その浄土ヶ浜の隅に2つ石碑が並んで立っている。古いのは1933年(昭和8年)の大津波の1年後に建てられた。その1行目は、地震が起きたら、大きな音がして津波が来るから、早く高い所に逃げろという内容。最後の行は、家を建てるなら津波の届かない高いところにつくれ、というもの。

 隣の碑は、1960年のチリ地震で、日本まで津波が届き、被災したことを記録したもの。これら2つの石碑が後世に伝えたかったことを、残念ながら、3.11で「2度あることは3度ある」ようにしてしまった。浄土ヶ浜には3つ目の石碑が立つのだろうか。

 山田町から大槌町へと走るバスの右手の遠くに、こいのぼりが見えた。土地が少し高く、津波の直撃を免れたあたりだろうか、何ヵ所かにこいのぼりが泳いでいた。津波で多くの犠牲者が出たことは痛ましい限りである。生者は亡くなった人たちの分まで、希望と充実した日々を生きていかねばなるまい。それなのに、普段の暮らしに戻れないおおぜいの被災者がいる。彼らを、たくさんのこいのぼりが多少とも元気づけてくれたらいいな、と思う。

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