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2013年4月18日 (木)

「私の履歴書」が示す石油産業の今昔

 きょうは東京・西新橋を通った。四つ角に立っていた日石ビルは建て替え工事中である。いつごろからか表にプロメテウスの大きな像が置かれた同ビルは、私が若い頃、よく取材で通った1960年代後半、上のほうの数フロアに日本石油および日本石油精製などの関係会社の本社があった。

 いま、日本経済新聞のコラム「私の履歴書」には、JXホールディングス相談役の渡文明氏が登場している。日本石油に入社し、日石で活躍し、社長になったのだから、これまで登場する人物は日石の人がほとんど。同ビルで、私も取材でよく会ったことがある人物が出てくるから、懐かしい。いまや、思い出の中にしか存在しない日石ビル、現実にはクレーンが2本動いている工事現場のところに来ると、感懐もひとしおだ。

 しかし、半世紀近い歳月のうちに、石油産業は様変わりした。60年代後半は、日本の石油産業は精製設備の新増設、ガソリンスタンド(SS)の新設が相次ぐ激烈な競争の時代だった。メジャーオイル(巨大石油資本)の市場獲得意欲が強く、通産省は石油業法で設備の認可、生産計画の認可を行ない、過当競争を抑制した。民族資本の育成も図った。業界団体の石油連盟の社長会には通産省の石油計画課長が出席し、にらみをきかせていた。

 60年代、石油輸出国機構(OPEC)ができ、1973年のオイルショックにつながるが、中東原油の供給過剰による原油価格の低下は60年代後半、1バーレル1ドルまで行った。日本の電力会社が原子力発電に本格的に乗り出すのも、この安い原油がきっかけだった。原油値下がりで石油火力の原価が下がったので、初期の減価償却額が大きい原発と抱き合わせれば、電気料金を下げないし、また上げないという長期安定が望めると考えたからである。”フクシマ”が起きなければ、それがいまなお続いただろう。

 60年代の黄金期からみると、いまの日本の石油産業は想像もつかないほど縮小過程にある。石油業法はとっくの昔に廃止された。各社とも石油精製設備は減らす一方。SSの数も特に地方から減っている。その過程で、精製、元売りの企業の再編が繰り返されてきた。日本石油は三菱石油と合併して新日本石油になったあと、さらに非鉄金属と石油とを兼業する日本鉱業のグループと合併して今日の姿となった。かつて、米カルテックスと提携していたということを忘れてしまいそうなほど、メジャーオイルの影も薄くなった。

 日本の人口は減りつつある。しかも高齢化が進んでいる。変わらないのは、石油をすべて海外から輸入していることだ。JXホールディングスもだが、海外で石油開発を行なう日本の石油会社は数社ある。商社も。だが、産出量は少ない。

 石油の一滴は血の一滴といわれたこともある。エネルギーとして石油の重要性はいまも昔も変わらない。北朝鮮、中国などの軍事的な突出は、そのことを改めて思い起こさせる。

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