2016年10月29日 (土)

映画「抗い 記録作家 林えいだい」を見る

 ドキュメンタリー映画「抗い 記録作家 林えいだい」を試写会で見た。戦前の日本は朝鮮人を本土に強制連行して筑豊の炭鉱などで働かせた。そのため、沢山の朝鮮人が故郷に帰ることもできず、悲惨な労働・暮らしを余儀なくされ、日本で死んでいった。しかし、戦争の時代を通じて日本が犯したこの罪を日本の国家は、また国民はきちんと償っていないのではないか。

 そうした過去の過ちを正面から取り上げ、追及する記録作家、林えいだい氏を映像で追った映画が『抗い 記録作家 林えいだい』である。この映画の中で、林氏が追っているテーマの一つは、1945年の敗戦の少し前、重爆特攻機「さくら弾機」が放火で燃えたとき、特攻隊員の1人が放火犯とみなされ、銃殺された事件である。林氏は、特高が、被疑者を朝鮮出身だからということで無理やり犯人に仕立てあげたのではないか、とみて、生存する当時の関係者を訪ね歩く。そして、真相に迫る。

 戦争が終わってから71年。戦時日本の国家権力、それを構成していた軍人、官僚、国策会社などの社員などが、日本の国策で犯した罪はほとんど忘れ去られた。これに対し、林氏は「歴史の教訓に学ばない民族は、結局は自滅の道を歩むしかない」と言って、権力の前に沈黙を余儀なくされていた民衆を訪ね、隠されていた真実を聞き出そうとしてきた。その基本的な姿勢には頭が下がる。

 映画の中で語っているのによれば、彼の父親は神主で、脱走する朝鮮人炭鉱労働者をかくまったため、国賊扱いされ、警察の激しい拷問のあと、帰宅して死んだ。戦争が終わったが、国家権力は、これについて何ら責任をとることはなかった。林氏が弱い者、名もない人たちの側に立って、ペンを振るい、カメラを向けるその執念には、この父の死が大きく影響しているように思う。

 80歳を超えて、病気と闘いつつ取材・執筆を続ける林氏の”抗い”には、戦前も今も日本の国家、経済社会を支配する権力に対する深い深い怒りが横たわっている。林えいだい氏のあとを受け継ぐ若手が出てくるのを切に望む。

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2016年4月24日 (日)

女川町住民が復興の主役、映画「サンマとカタール」

 宮城県女川町はサンマ漁の大量水揚げと原子力発電所との2つで知られる。2011年3月11日に三陸沿岸を襲った巨大地震と大津波で死者・死亡認定者が830人余、住家は4分の3が全半壊した。町の中心部は壊滅した。その女川町が復興に邁進し、中心街が急ピッチで復興された過程を描いた映画「サンマとカタール  女川つながる人々」を試写会で観た。

 この女川には、中東の石油国、カタールが震災直後に設立した復興支援基金からの拠出20億円に基づいて、2012年のサンマ漁に間に合うよう突貫工事でつくられた巨大な冷凍冷蔵施設がある。この建設が希望の灯となって、町の産業、企業の担い手である若い世代が春の祭りを企画し、アイデアを一杯盛り込んだ復幸祭を成功させる。

 県などの役所に頼る復興ではなく、自分たちの町の未来を自分たちで切り拓こうとする姿は、中央依存でない地域再生のありかたを示唆している。

 高い防潮堤をつくったら、海が見えなくなる。女川町の人たちは、海がみえるのを優先し、商店街や住宅地は盛り土で高くした地域にまとめるという選択をした。

 映画は、そうした3.11以降の女川再生の取り組みを定点撮影で撮った映像で見せてくれる。貴重な記録である。

 女川町を含め、被災地はどこも復興に懸命に取り組んでおり、将来、それぞれ、復興策が適切であったか、歴史の審判に立たされよう。

 女川の場合、東北電力女川原子力発電所があり、そこからの税収で財政的にゆとりがあるので、復興策はそれを支えにしてつくられているようにみえる。それが将来、吉と出るか、凶と出るか。人口減少は同町も例外ではない。5年後に同町がどうなっているか、映画の続編を見たい。

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2014年3月18日 (火)

アンジェイ・ワイダの「ワレサ 連帯の男」を見て

 世界的に著名なポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダの新作「ワレサ 連帯の男」を見た。第二次世界大戦後、ソ連の支配下にあった東ヨーロッパ諸国は、自由と民主主義を認めない”社会主義国家”ばかりだった。そうした圧政下の東欧諸国の中で、ポーランドは1980年代、独立自主管理組織「連帯」の誕生とその闘いで世界に知られるようになった。「連帯」とそのリーダーのワレサという名前は遠い国、日本でも有名になった。

 1970年のグダニスクにおける食料暴動に始まるワレサの活動は、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦が解体して4分の1世紀が経ったいまから振り返ると、随分と昔の出来事のように思えるが、当時のソ連・東欧の世界では、画期的な出来事だった。直近、ロシアがウクライナのクリミア共和国を自国に編入しようとしているなど、歴史の振り子が逆に振れ始めたようにも思えるが。

 いま、この映画を見て真っ先に連想したのは、アジアにおける圧政、即ち、中国と北朝鮮の現実である。人権尊重、自由と民主主義などが無視され、中国では、チベット族、ウイグル族やモンゴル族などの少数民族は厳しく抑圧されている。これらの国では、現在の支配体制に異を唱えた者は弾圧されている。

 ワレサは1983年にノーバル平和賞を受賞した。受賞式には本人が出ず、夫人が出席したが、帰国した空港で屈辱的な扱いを受けた。それは、中国政府が近年に自国の受賞者に対してとった態度とそっくりである。

 ポーランドの改革は、同国の指導者層の中に、ソ連の支配をよしとしない意識があったがゆえに可能になった面があるような印象を受ける。中国には、そうしたものがない。したがって、中国の改革が何をきっかけにどういう形で展開するのか、予想もつかない。

 映画そのものについてちょっと言うと、ワレサが外国のジャーナリストのインタビューに応じて話し、各場面が展開するという手法はユニークだ。また、映画は、ワレサが1990年に大統領に当選したところまでを取り上げている。しかし、1995年に再選されなかったことやその背景には触れていない。そこが見たかった。

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2013年2月 1日 (金)

映画「約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」を見て

 冤罪とみられる殺人事件を取り上げた映画「約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」を試写会で見た。1961年に三重県名張市の葛尾という小さな集落で起きた名張毒ぶどう酒事件。集落の懇親会で、女性にはぶどう酒が出され、飲んだ女性が次々に苦しみだし、5人が死亡した。当時、大きく報道された事件である。

 その犯人として逮捕された奥西勝(当時35歳)氏は警察に自白を強要されたと主張し、1審で無罪だったが、2審で死刑判決を受けた。上告したが、1972年に最高裁判決で死刑が確定した。これに対し、奥西氏は冤罪だとして再審を繰り返し請求したが、却下されるばかり。事件から26年も経った87年に、冤罪事件の救援活動をしている川村富左吉氏が奥西氏に面会し、無実を訴える署名活動を開始した。以後、支援の輪が徐々に広がり、最高裁が再審請求を認めたこともあったが、名古屋高等裁判所は再審開始の取り消し決定を繰り返した。

 弁護団はぶどう酒に混入された毒物が自白したものとは別の物質だったとか、ぶどう酒のびんの王冠は、奥西氏が自白した方法で開けたものではないことを立証したりして、有罪の根拠を崩していったが、再審を求められた高裁は新証拠を否定し、自白は信用できるという主張を繰り返した。

 事件が起きて、奥西氏が逮捕されてから半世紀が過ぎた。名古屋拘置所に長い間閉じ込められ、いまは病気のため八王子医療刑務所にいる死刑囚の奥西氏。映画は実写映像とドラマ映像とを重ねて、事件以来の半世紀を描写している。ドラマでの奥西勝役は仲代達矢、母親役は樹木希林が演じている。

 映画を見ての感想を言うと、彼があと何年生きられるかわからないが、物証が覆り、自白しか有罪の決め手はなくなっているのに、いまだに無罪にしない裁判所とはいったい何者かと思う。繰り返される冤罪事件は、自白をベースにした有罪判決から生じているのにだ。

 映画でも指摘しているように、裁判所も官僚制であり、先輩の業績(この場合は判決)の否定を徹底的に厭うことは容易に想像しうる。もし、否定するような判決を下したら、出世コースからはずされる可能性が大である。裁判官は判決いかんで人の命、人生等を抹殺することになるという重大な使命を担っている。その裁判官が真実を貫かないようでは、私たちは安心して暮らせない。

 奥西氏は半世紀にもおよぶ長い歳月、拘禁状態に置かれてきた。期間だけでみれば懲役50年余に等しい。いや、死刑囚は明日にでも死刑執行される恐怖と毎日向き合うだけに、精神的には全く質が異なる極刑である。そして、もしも、それが冤罪によるものだとしたら、と考えると、おそろしくなる。裁判官は俗人の心境を捨て、神の心を持たねばならない。

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2010年6月20日 (日)

太地町のイルカ漁を撮影した映画「ザ・コーヴ」

 映画館での公開に反対する活動もあって、注目されている米国のドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」を試写会で見た。和歌山県の太地町は古式捕鯨発祥の地とされているが、そこでのイルカ漁の実態を、地元の人たちの妨害を潜り抜けてひそかに記録したものである。

 今日、イルカは水族館などのショーで人気者である。愛らしいし、知的能力が高いので、さまざまな芸ができる。それに、人々はイルカと触れることで癒されることもあるからだ。しかし、イルカは海洋では1日に数十㎞移動するし、集団で行動する。それが水族館などに閉じ込められると、ストレスを感じ、病気になったり、時には自殺する(呼吸を止める)とリック・オバリーは言う。

 オバリーは1960年代に米国のテレビ番組「わんぱくフリッパー」でイルカの調教師兼俳優だった。彼はのちに、イルカショーがイルカを苦しめていることに気付き、イルカ解放運動の先頭に立つようになったという。太地町に来たのは、イルカ漁を止めさせたいという問題意識からで、米国の知人らの応援を得てイルカ漁の実態を撮影しようとした。しかし、イルカを網で海岸の入江近くに追い込み、ショー用に高く売れるものと、そうでない、食用に回すものとに分け、後者を銛のようなもので刺して殺す現場は外部の人間には隠されて見えない。そこで、ひそかにカメラを仕掛けて、撮影に成功する。映画の“007シリーズ”ではないが、どうやって撮影に成功するかが見る者をはらはらさせる構成である。

 銛のようなもので次々に刺殺するから、イルカがのたうち絶命する様子が見え、入江は血で赤く染まる。その映像は生々しい。おそらく、この映像が映画公開反対のポイントなのだろう。

 映画は、IWC(国際捕鯨委員会)が鯨類の一種であるイルカを保護する活動を全くしていない点を批判し、また、捕鯨やイルカ漁についての日本政府の官僚の発言を取り上げている。食物連鎖の頂点にあって水銀が蓄積されているイルカの肉を食べるのは健康を害するといった指摘もしている。

 この映画には、「くじら供養碑」がちらっと映っている。この映画を撮影、制作した米国人たちは、この碑の意味に気付きもしなかったようだが、そこに、この映画の問題点があるように思える。人間が生きていくうえで、動物、植物などの生命を食べざるをえない。だから、それらに感謝と原罪を感じ、日本人は慰霊碑をつくるのである。これに対し、動植物を人間が支配する対象としか見ないキリスト教世界は、哺乳類の鯨類だけは人間の仲間として、その他の動植物と分けて考えているようだ。そうした問題も改めて考えるべき時なのだろう。

 ところで、長い歴史がある捕鯨方式だとはいえ、それが今日の日本人の多くが賛成するものかどうかはわからない。それに、鯨やイルカの肉を食べる人はごく少数になっている。そういう時代の変化もこの問題を考える際の重要な視点である。

 

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2010年6月13日 (日)

映画「ONE SHOT ONE KILL」の衝撃

 米国のサウスカロライナ州パリスアイランドに海兵隊の新兵訓練所(ブートキャンプ)がある。そこでの入隊から卒業までを記録した映画「ONE SHOT ONE KILL ― 兵士になるということ ―」を見た。

 日本にも自衛隊という名の軍隊があるが、世界最強の米軍の兵士がどのように育成されるのか、私たち日本人は全く知らないし、想像もできない。しかし、米海兵隊の新兵訓練の内容がどのようなものかを淡々と記録しているこの映画を見たら、多くの人は激しい衝撃を受け、考え込むだろう。

 私の感想は以下の通りだ。

 バスで深夜、キャンプに到着する。着くや否や、教官が大声でがなって指示する。そして、訓練所の建物に入ったら、立て続けに教官があれこれ命令し、頭髪を丸坊主に刈るなど兵士となる準備をする。兵士到着から48時間は眠らせないという。

 建物の中に入ったら、娑婆とはお別れ。全く別のものさしが働く世界になる。即ち上官の言うことには絶対服従である。皆、大声で「Yes, Sir !」と叫ぶ。上官の指示、命令に疑問を抱くことは許されない。戦闘の最中を想定すれば、当然のことではあるが、私たち民間人からすると、異様な感じがする。

 「虐待をしてはいけない」と上官が命ずる。もし、直属の上官がそうした行為をした場合、その上官の上官にクレームを申し立てなさいと言う。新兵は多様な人種から成り、女の新兵もいる(ただし男と女とは別々に訓練している)だけに、虐待禁止を明示するのは適切だ。

 戦闘の訓練は、当然のことながら、敵兵を殺すための訓練である。海兵隊は、兵士が敵兵と銃撃戦や白兵戦を展開するから、ライフル銃による射撃の訓練や格闘技の訓練などを行なう。肉体を鍛え、兵器などの操作能力を高める。卒業前には実戦を想定した野外訓練を3日間にわたって行なう。

 わずか12週間の訓練期間だが、ここで、海兵隊員となるための基礎をマスターする。志願した若者たちは入所する前と比べて、自分が成長し、一人前の兵士に“変身”したような気持ちになるようだ。ちなみに、海兵隊のモットーは「名誉、勇気、献身」である。

 米国は徴兵制ではなく、志願制の国である。主に貧しい若者や、仕事のない若者が兵士になる。兵役中に技術を身につけて民間に転身したいとか、将来、大学に行きたいなどといった事情で志願しているのだろう。しかし、日本と違って、米国の軍隊は世界のあちこちで戦争しているので、最前線に送られて戦い、中には戦死する兵士もいる。それも相当の数にのぼる。それに、戦争の大義が信じられないまま、敵という名の人を殺すことに疑問を抱き、精神的に病む兵士もいよう。新兵訓練所を巣立つ若者たちは、そうした苦悩の現実をまだ知らないから、屈託がない。

 この映画のプロデューサー、景山あさ子氏は「以前、沖縄で米海兵隊の兵士にたくさん会った。しかし、あまりに幼い。この子たちはどうしてここ(沖縄)にいるの?と思った。屈託のない若者と中東などでの凄惨な戦闘とは対照的で、まだ人を殺していない若者たちが戦闘を体験したら、そのあと、彼らはどう生きていくのかと思った」という。それがこの映画を制作する動機の1つだったとのこと。

 沖縄における米軍基地の問題を側面から取材、記録したこの映画。よく、米国政府は新兵訓練所の撮影を許可したものだと感心する。沖縄問題で日本に配慮したのかもしれないが、このオープンな姿勢は中国などの主要国にぜひ学んでほしい点だ。 

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2009年11月16日 (月)

映画「カティンの森」は重かった

 映画「灰とダイヤモンド」などで知られるアンジェイ・ワイダ監督が2007年に制作した映画「カティンの森」を試写会で見た。何とも重たいというのが見たあとの率直な気持ちだ。忘れていた重要かつ深刻な問題をこの映画で思い出してしまったような気持ちになった。

 第二次世界大戦はナチスドイツがポーランドに電撃的な攻撃を実施した1939年9月1日に始まる。そして、ドイツとソ連とのポーランド分割秘密協定に則って、ソ連が同月17日にポーランドに侵入した。西からと東からの侵略でポーランドという国家は事実上消滅した。

 そして、ドイツ民族の優越性を誇るナチスはポーランドに住む多数のユダヤ人を強制収容所に送り込み、ガス室で虐殺した。ソ連は捕虜にしたポーランド軍の将校約1万5千人の多くをカチンの森に運び、銃殺して埋めた。どちらも歴史に残る、残虐きわまりない大量虐殺である。ソ連について言えば、ドイツ軍の捕虜だった多数のソ連兵士が帰還したとき、ドイツのスパイとみなしてシベリアなどの強制収容所に入れた。また、ソ連国内でも、体制にタテをつくとみられた人々を片っぱしから処刑したり、収容所送りとした。人間不信の恐怖政治の体制だった。

 第二次世界大戦中の1943年に、カチンの森で数千人の遺体が発見されたが、当時、ドイツとソ連は、お互いに相手国の仕業だと糾弾しあった。ソ連による行為だとはっきりしたのは、ソ連・東欧圏が崩壊した1990年ごろのことである。

 第二次大戦が終わったあと、領土を西寄りにずらされ、社会主義国家として再興したポーランドは、ソ連の衛星国となった。このため、ソ連はもとよりポーランド政府も、カチンの大虐殺がソ連の行為だということを認めなかった。

 ポーランドは、ヒトラーのナチスとスターリンのソ連とによって国土を蹂躙され、たくさんの国民が残虐非道の殺戮行為で命を断たれた。そればかりか、戦後も、冷戦の続いた半世紀近く、ソ連の東欧支配により、民主主義も、言論の自由、出版の自由なども認められなかったのである。多くの人は生きていくために、権力に屈従せざるをえなかった。

 いま、私たちは民主主義を当たり前のように思っているが、自由とか民主主義とかというものは決して当たり前のものではない。それを維持する普段の努力がなければ、いつ奪われてしまうかもしれない。ナチスやスターリン主義が示したように、人間は組織、団体とか集団になると、信じられないほど非道な行為を平然と行なう存在である。その恐ろしさに封印をしたつもりでも、いつ、それが破られるかわからない。映画でそのことを思い起こした。 

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2008年12月 2日 (火)

「蘇る玉虫厨子」

 法隆寺の国宝、玉虫厨子は飛鳥時代につくられた仏教芸術の最高傑作とされる。しかし、造られてから千年を超える長い歳月が経っているだけに、色や図柄は薄れ、玉虫の翅もほとんど失われている。

 これを復元しようと思い立ったのが中田金太という実業家。私財を投じて全国のすぐれた職人を集めて、数年かけて復元に成功した。映画「蘇る玉虫厨子」は、蒔絵師、彫師、塗師、宮大工、それにかざり金具師、それらの匠が自らの技術をかけて取り組んだ過程を記録したもの。日本の職人たちの仕事への情熱とハイレベルの技術とを画面で堪能した。

 国宝の復元とはいえ、本物に触れることは許されないので、蒔絵師たちは国宝の公開の際に丹念に見たり、写真や文献などをもとに、判読しがたい絵柄などを解読ないし、想像したりする大変な苦労を重ねた。図柄では、見えないものが見えてくるまでじっくりと写真などを見つめたりしたという。

 玉虫の翅は日本では一部しか調達できず、海外から大量に輸入したという。産地で翅の色が違うので、それを生かす工夫も必要だった。翅を細かく切り、1枚1枚貼り付けるなどの作業は気の遠くなるような細かい手仕事である。

 屋根は一枚の板から屋根瓦の形などを削り出すなど神経を集中する作業ばかり。漆塗りの漆そのものの作り方、塗り方なども、そこまでやるのかということばかりだ。

 復元された玉虫厨子は画面で見る限り、すばらしい出来栄えである。12月13日~21日、東京・上野の国立科学博物館で特別に展示されるそうだから、見てみたい。

 実は、復元された玉虫厨子は二基ある。一基は法隆寺に置かれる。もう一基は飛騨高山に収蔵されている。違いは、絵柄を玉虫の翅で描いたものが飛騨高山のもの、絵柄が漆塗りのものが復元した法隆寺のものである。

 法隆寺では、国宝、玉虫厨子が飛鳥時代につくられたとき、いかに華麗であり、また釈迦の教えを描いた荘厳なものであったかが参拝者にわかりやすくなる。国立科学博物館の展示は飛騨高山から持ってくるという。

 中田氏は完成前に亡くなったが、彼の貢献は非常に大きい。日本の職人の技術がすぐれていても、それを発揮し、次世代に伝承していくには、こうした高度の技術を要する作品をつくってくれという注文がないといけない。職人の1人は、こうした難しい注文を受けることで新しい技術を生み出すことができたと言っている。

 その意味で、中田氏のように文化を支えるお金持ちがもっと出てこないといけない。彼は飛騨高山の祭に使われる舞台を8基つくって寄付したり、私財を伝統文化の保存・振興に次々投じたという。国も、国宝をただ保護、保存するだけではなく、それらを生み出してきた技術および職人を育て、技術を伝承することが可能な仕掛けを工夫すべきだろう。 

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2008年4月19日 (土)

映画「靖国」雑感

 いま話題の映画「靖国」を観た。いくつかの映画館が上映予定から下りたあと、別の映画館が上映に踏み切ると伝えられた。また、国会議員を対象とする試写会があったり、右翼系活動家にも観てもらったりするたびにメディアが取り上げて報道している。これだけ巧まずして“前宣伝”が行なわれた以上、一般封切になったら、観客が多いことだろう。

 8月15日は別として、普段の靖国神社は静かで訪れる人も少ない。千鳥が淵の桜を見るためにやってくる人たちの一部がついでに寄るときに結構にぎわうぐらいだ。だから、映画で見る靖国神社の8月15日には驚いた。全く異質の世界が展開しているからだ。

 第二次世界大戦に敗北した1945年から半世紀以上過ぎたにもかかわらず、あの戦争において戦った人々、銃後で苦しい目にあった人々、犠牲になった人々、そして、それらの人々の子孫の中には、あの戦争の後始末というか総括に対して納得していない人が少なからずいる。それが8月15日の靖国神社に現れている。そのことが映画でよくわかった。

 しばらく前に、映画「明日への遺言」を見た。第二次大戦中、米国による東京大空襲に比べれば、規模は小さいが、名古屋への大空襲もあった。そうした空からの無差別爆撃は国際法に違反するのではないか。そうした疑問がこの映画の背景にある。

 日本はアジア諸国を支配下に置こうとして侵攻し、結局敗れた。その事実を歴史のどういう文脈に置くかによって、解釈は大きく分かれる。外交的な立場からみた日本政府の公式的な見解ははっきりしているが、それに国民が皆、納得しているわけではない。それが折りにふれ噴き出す。そして、アジアの国の反発を招くこともある。しかし、それは日本が言論の自由、表現の自由を保障するデモクラシーの国家である証明でもある。

 映画「靖国」については、8月15日の靖国神社にだけカメラを向けていたら、もっと我々日本人に深く考えさせることになるのではないかという感想を抱いた。靖国神社のご神体が「日本刀」であり、刀匠が「靖国刀」をつくる工程を映すことや、戦時中に捕虜などを刀で斬殺しようとする写真を何枚も映すことで、かえってストーリーがありきたりのものに単純化されてしまったと思えるからだ。

 戦争・軍隊に関わる映画と言えば、先日、韓国映画「光州5・18」を見た。1980年5月の“光州事件”を正面から取り上げたものである。日本の自動車生産や粗鋼生産などが世界一になった年に、隣国の韓国では、非常戒厳令が敷かれ、軍隊が、民主化を要求する学生・市民らと衝突し、武力制圧した。たった28年前のことである。いまのチベットを想起するような事態だが、当時の韓国には、いまの中国がそうであるように、言論の自由、報道の自由がなかった。だから、韓国国内に、光州の出来事がきちんと伝わらなかった。

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2008年4月 6日 (日)

映画「クライマーズ・ハイ」を見て

 1985年8月12日、羽田発大阪行きのJAL123便、ボーイング747SR機が群馬県の御巣鷹山(標高1639㍍)に墜落し、生存者4人を除いて520人が亡くなった。横山秀夫著「クライマーズ・ハイ」は、地元紙の記者としてこの世界最大の航空機事故を取材した体験をもとに書かれた作品だそうだが、この原作を読まずに、映画「クライマーズ・ハイ」を試写会で見た。

 事故発生のその日、私は新聞社にいて、夕刻、そろそろ帰ろうかと思ったときに、「日航機が行方不明」という第一報が入った。そのうち、長野県に墜落したという情報が入った。乗客の中に歌手の坂本九さんも入っているという。そして翌日、群馬県・御巣鷹山の現場からの報道が始まった。会社に出ると、一週間ほど前にやってきて話をした大阪本社の仲間が犠牲になったことがわかった。そうした記憶があるので、格別の思いで映画を鑑賞した。

 映画は、前橋市に本社を置くローカル紙が、地元で起きた未曾有の航空機事故について、どういう取材態勢をとり、どんな記事を執筆し、どういう紙面をつくったかを、事故報道の総責任者、および編集記者たちを中心に映像化している。映画はよくできていて145分飽かせなかったが、個人的に感じたのは、映画の中での、新聞づくりにたずさわる人たちの熱気である。活気を超えて、まさしく熱気である。

 いまの全国紙も、地方紙も、おそらく失っているのは、この熱気である。新聞という仕事を生かすも殺すも、そこで働く記者やそのほかの人々のやる気である。自由闊達な職場からしか、いい新聞は生まれない。いい情報を提供するというのとは違う。

 現在の新聞社は、購読者の減少、広告の減少などで、経営環境が厳しくなる一方である。IT化やグローバル化など、内外の情勢変化もあって、経営の論理、組織の論理が編集局の上から下までをもおおっている。昔は、変わり者、一匹狼のような個性的な人材がいたが、そうしたのりしろを許容しなくなっている。

 この映画でも経営や組織の論理がときどき顔を出すが、ひたすら、いい紙面をつくろうという熱気がほとばしる。私も第一線の記者だったころから、そうした気持ちを持っていたつもりである。それだけに、この映画に現れた熱気に感激した。

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