2009年5月24日 (日)

フーン、そうかと思った、増田悦佐著『格差社会論はウソである』

 久しぶりに刺激を受ける本を読んだ思いがする。増田悦佐著『格差社会論はウソである』(PHP研究所、2009年3月11日発行)だ。日本のこととなると、何かにつけ、悲観的、自虐的に解釈する傾向がこの国にはある。そうした通説とか常識を、具体的なデータで次々にひっくり返すことにより、日本が世界で一番良い国であることを論証している。

 本書で強調しているのは、日本が世界でもきわめてユニークな社会であるという指摘だ。例えば、①「日本人を幸福にするための要求水準は世界一高い」、②「日本社会の特徴として、非常に平等化圧力が高い社会」であり、男女間の体力差が縮まっている、「日本ほど子供が社会的に成熟している国はない」、そして、「知的エリートと大衆とのあいだに知的能力格差がない」、③「子どもと若者、とくに若い女性たちがじぶんたちの文化と市場を自分たちの力で作り出せる唯一の国である」、④日本の企業について、これまでのように「大企業はヌエ的な生き残り重視、中小企業が戦わない経営に専念すれば、それで良いのだ」―など。

 また、「現代の若者の無知、無気力、自信喪失、望みの低さ」といった一見否定的な特徴が「おとな顔負けの社会的成熟度を持った彼らの叡智の表れ」だと述べているなど興味深い指摘が随所にある。

 著者によると、日本の経済社会の直面する危機はたった一つ。知的エリートがあおりたてる根拠の乏しい危機感や悲観論を信じて自暴自棄的な集団自殺に突っ込むことだという。

 本書の論点は多岐にわたっており、かつ全体を体系立てて展開しているわけではない。したがって、内容は精粗まちまちな印象を受けるが、そういう見方ができるのかと驚くところがあちこちにあり、新鮮だった。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年3月21日 (土)

砂原和雄著『炎の森へ』を読む

 若い頃、私と同じ公社住宅に住んでいた新聞記者が、定年後、作家になった。砂原和雄氏である。彼が昨年11月に出版した『炎の森へ』を読んだ。日本長期信用銀行の破綻直前に、陶芸家をめざして銀行をやめ、笠間で修業を始めた実在の男性をモデルにした小説である。

 50歳になったら、陶芸家になる道に進もうとしていたのが、勤め先の長銀が経営危機に陥ったため、転進の時期が3年ほど早まった。銀行の同僚だった人たちの人生が銀行の破綻によって大きく変わらざるをえなかったのに比べ、自ら、第二の人生を主体的に選んだ主人公は、並大抵ではない苦労を重ねつつも、積極的に道を切り拓いていく。

 長銀で共に働いた仲間たちにとって、主人公は「われわれ仲間の心のシンンボル」(元頭取の言葉)とも言えるだろうが、著者は、そこに、世間一般の中高年にとっての“希望の星”を見出して作品を書いたことがよくわかる。

 作品から離れるが、高齢化・長寿命化した我が国では、定年などで仕事を終えた高齢者たちの生き方が個人的にも社会的にも大きな問題となっている。同じ高齢者といっても、質素に暮らすだけの収入や資産がない人もいれば、豊かでぜいたくな日々を過ごしている人もいる。また、街を歩いていると、身体が不自由で歩くのも大変な人をよく見かける。それに、老夫婦の片方が病気などで苦しみ、元気なほうがそれを支えるのに疲れて余裕をなくしてしまうという話も知人、友人から聞くことがちょくちょくある。

 高齢者が健康で、意欲的な生活をおくるには、さまざまな条件をクリアせねばならないが、その一つは、定年のない仕事に就いている人は別として、仕事とは別の生き甲斐というか一生続く趣味、楽しみを若い頃から持つことだ。社会貢献の活動もいい。それは人生を彩り、時には仕事を助けることもある。情けないことだが、自分が年をとってみて初めてそれを実感した。山登りが好きだとか、俳句が好きだとか、絵を描くのが趣味だとか、地域の子供の野球チームで世話をするとか、いろいろあるだろう。

 かつて三井銀行の頭取を務めた小山五郎氏は絵を描くのが趣味だった。仕事でおもしろくないことがあっても、家でキャンバスにむかうと、心が落ち着いたという。彼のおじさんが著名な仏文学者で、テニスが趣味だったが、身体をこわし、テニスができなくなった。そのおじさんが「テニスができず退屈。その点、五郎くんがうらやましい。健康を害しても絵は描けるから」と言ったそうだ。

 さらに余談をすると、かつて通産省OBで政府系金融機関のトップに就いた人は老後を考えて俳句を趣味にしたという。なぜなら、「寝たきりになっても、退屈しないのにうってつけと考えた」と語っていた。私の同世代の知人で、口もきけず、手足も動かせない状態になった人は、妻の手助けで、まばたきだけで字を選び、俳句を詠んでいた。数年前に亡くなったが、最後まで前向きに生きた人だった。

 仕事も趣味もプロ並みというすぐれた人はそうそうはいない。若い頃から、趣味に生き甲斐をおぼえる人は、職場では必ずしも歓迎されない。二兎を追う者一兎を得ず、ということもあるからだ。だから、著者の砂原氏にしても、「封印」していた自分のやりたいもう一つのことを、60歳になってからやり始めたのだろう。

 高度成長の時代やバブル崩壊後の長期経済停滞などを経て、2000年以降に高齢者の仲間入りをした人たちの中には、砂原氏のように、いきいきとした第二の人生をスタートした人が少なくない。また、長生きで、60歳代や70歳代で若々しい人がたくさんいる。彼らは、スポーツであっても、かなりの能力を持続している。少子高齢化のもとで、現役世代にお世話にならない高齢者が増えるのは、社会を変えることにもつながるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

伯野卓彦著『自治体クライシス 赤字第三セクターとの闘い』

 青森県大鰐町、長野県飯綱町、北海道芦別市、赤平市。これらは、バブルの時代やその余熱があった時期に、第三セクター方式でリゾート施設、テーマパークなどに巨額の投資を行なったり、市立総合病院を大規模化・新鋭設備化したりし、その後、経営不振で借金の重圧にあえいでいる自治体である。

 伯野卓彦著『自治体クライシス 赤字第三セクターとの闘い』(09年1月刊、講談社)は、これらの自治体のあえぎが聞こえてくるようなルポルタージュであり、背後には、夕張市のように破綻しかねない自治体がたくさんあることが行間から読み取れる。

 折りにふれ、新聞などで伝えられる夕張市のその後は、それを読む者にも、逃げ場のない苦しさを感じさせる。本書も同様である。もちろん、苦しい中で必死に努力している人たちには頭が下がる思いがする。しかしながら、一方で、どうして、こんな馬鹿なことが起きたのか、誰の責任か、責任者はその責任をきちんととったのか、などを明確にする作業が絶対に必要であると痛切に思う。

 それについての私の意見を言えば、第1に、自治体および住民の、いざとなったら国が面倒をみてくれるという高度成長時代から続く甘え、および、それと裏腹の関係にある自治体の経営感覚欠如である。地方自治には自己責任が伴うが、自治の基本が確立していない。情報を公開し、議会および住民がきちんと議論し、納得するステップを踏まず、簡単においしい話に飛び付いている。リスク感覚がゼロに近いのである。

 自治体は、第三セクターの債務について、金融機関と損失補償契約を結んでいた。それが何を意味するかも、自治体はほとんど知らなかったようだし、知っていても、第三セクターが破綻して、借金をすべて肩代わりして返済せねばならない時が来るなんてことを全く想像していなかった。まして、住民はそうだったろう。

 自治体と第三セクター設立で手を組んだ民間企業のほうも、相当おいしいことを言って自治体を丸め込んでいたと思われる。でも、それだからといって、自治体および住民の負うべき責任、負担が軽減されるわけではない。

 第2に、j地方自治体の味方のようなふりをしながら、国の行政機関として自治体を支配し続けている総務省(旧自治省)の行政である。同省は、補助金や交付金などで自治体の活動をコントロールし、自治体および住民の主体性確立を妨げてきた。したがって、いまだに地方自治体および住民の国に甘える意識は変わらない。真の地方自治が実現すれば、総務省はほとんど要らなくなる。そうならないように、自治体を生かさぬように殺さぬようにしているのが総務省の客観的な役割である。

 もちろん、個々の地方自治体は万能ではないから、ベストを尽くしたとしても、予測不可能な事態に直面し、お手上げになることもある。それに備えて財政面の蓄えを十分にしておくとか、緊急に国が新立法で救済する必要もあるだろう。しかし、平時には、国は地方自治を貫く方向にもっていくべきだ。さもないと、自治体は性懲りなく国に甘えようとする。中央政府が真の地方自治をめざす自治体および住民を支援するように、政治自体を変える必要がある。

 著者は、「おわりに」で、責任の所在は国にあるのか、自治体の幹部にあるのか、住民にあるのか、バブルの時代のせいか‥‥、おそらくそのすべてだと思うと書いている。そして、長期戦略を立てられないこの国の構造的な問題が根っこにあるような気がしてならないと指摘している。しかし、責任の所在を一億総ざんげのようにあいまいにするのには賛成しかねる。

 いずれにせよ、なぜ、こうしたことが起こったのかを徹底的に解明することが望ましい。それが行なわれれば、責任の所在も、今後の対応策も、明確になる。日本の行政および政治がそれを避けていては、簡単に過ちを繰り返すだろう。 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年2月 5日 (木)

『責任に時効なし~小説 巨額粉飾』

 もう消滅してしまったが、鐘紡という会社に取材に行ったことが少しある。伊藤淳二社長(のちに会長など)に単独取材したことが二度あるし、大阪にあった染色工場に、閉鎖の少し前に工場見学に行ったことがある。伊藤氏と会ったとき握手したら、その手が柔らかでぽってりしていて、いささか気持ちが悪いと思ったのが鮮明に記憶に残っている。

 伊藤氏は労働組合と組んで権力の座に上った。日産自動車の川又克二氏がやはり労組と結託して会社を経営していたのと同様、労組を抑えられないままだと、会社は合理化などにおくれをとる。小説『責任に時効なし』は、その鐘紡が伊藤氏の時代に始めた決算粉飾を30年にもわたって続け、ついに会社が崩壊するにいたる、すさまじい粉飾の歴史の物語である。

 著者の嶋田賢三郎氏は鐘紡の経理担当役員として2004年まで在籍し、トップが粉飾決算を指示するのに抵抗し続けた。だから、一旦は粉飾決算の責任を問われ検察に逮捕されたものの、最終的には起訴されなかった。その自らの苦闘を小説の形でまとめたものだから、500ページを超す長編ながら飽きさせなかった。

 鐘紡の粉飾決算では公認会計士・監査法人が関わっていた。もともと一般に、公認会計士はクライアント(顧客企業)を個々に持っていた。しかし、顧客の無理を聞かざるをえないために、粉飾決算が起こりやすい。そこで、監査法人の制度ができた。だが、監査法人が上場会社の監査をすべて担うようになっても、粉飾決算を容認する監査法人が完全にはなくならない。

 大々的な粉飾決算が表面化したら、会社は間違いなく倒産する。一方で、企業は粉飾を始めたら、大体がやめられなくなる。だから、会計士・監査法人にしてみれば、ひとたび粉飾決算を容認したら、引くに引けなくなる。そうした苦悩が始まる。

 したがって、粉飾決算を主題とする本書は、当事者しか知らない事実をもとにして書かれているだけに、ドラマティックである。

 印象に残った文章を引用すると――

 「粉飾は1970年代から始まり、その後ほぼすべての部門におよび、燎原の火のように蔓延していった。決して一握りの者だけの犯行ではなかった。」

 「通常、粉飾は直接的、間接的かは別として、経営トップが示唆、要請、あるいは指示するもので、それに異を唱えれば左遷か村八分になる。だから、粉飾は必然的に組織的なものになる。」

 「粉飾は自己愛的で人間の業の要素を多分に持つ。「自己保身」と「倒産しない限り捕まらないという固定観念」、粉飾の動機は至極単純で人間臭くしかも自己本位的である。」

 「たとえ時効が成立しても、過去に犯した罪の責任は何人たりとも、それから逃れることはできません。だからこそ、真実の解明と歴史的な背景事情を白日の下に晒すことが必要」

 「時効はあくまでも法律上、刑事罰を適用する場合にのみ意味があるだけだ。時効であるからといって事実を闇に葬ることは決して許されない。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月29日 (土)

『貧困の現場』(東海林智著)

 毎日新聞の記者、東海林智氏の書き下ろし。日雇い派遣、名ばかり管理職、過労死・過労自殺、外国籍労働者搾取など、非人間的な労働・生活条件のもとであえぐ人々に密着取材し、ときには一緒に行動して、現代日本の暗部をえぐり、告発する書である。

 ワーキングプアといわれる人々の苦悩に共感し、貧困の現場を歩いた記録だが、具体的な内容については本書を読んでもらえればと思う。以下は私の感想である。

 住宅があれば、ぐっすり寝られるし、自分の持ち物を置く場所ができる。そして仕事も見つかりやすいという。人間らしく生きるのに、「住」は基本であることがわかる。

 派遣労働では職場がくるくる変わるので、人間関係ができない。それが孤独感を深めるという。「労働は商品ではない」のだから、人間らしい働き方や労働者の権利を大事にする必要がある。

 長時間労働、サービス残業、名ばかり店長など劣悪な労働条件のもとでも我慢して働く人々は真面目な性格なのだと思う。雇う側はそこにつけこんでいる。それが何とも卑劣だ。日本企業は家族的経営だとか人間尊重などの特徴があるといわれたこともあったが、実は、人権とか民主主義といった基本的な価値が日本の社会には根付いていないことを示しているのだろう。

 フランスでは、ホームレスはまずシェルター(住むところ)を求めるそうだが、日本ではまず仕事をくれというそうだ。日本の人たちは働くことに関して、単に生活を支えるためだけでなく、生き甲斐をも感じているのだと思う。日本経済の国際競争力が強いのと無関係ではないと思う。

 最後に注文。『貧困の現場』が取り上げている現実が生じてきた背景をバブル後遺症およびグローバルな視点で分析してほしかった。1995年に、当時の日経連が発表した提言「新時代の『日本的経営』」において、雇用の流動性と成果主義の導入が打ち出された。その後、それが実現したというわけだが、日本の企業がヒト、設備、債務の3つの過剰を抱え、ポスト冷戦およびIT革命のもとで、再生するには他にどのような選択肢があったのか。

 「おわりに」で、「労組は結果的に派遣法を許し、規制緩和も押し切られてきた。非正規労働者がどんどん増えていった時も自分たち正社員の雇用を守るのに必死だった。彼は「本当の意味で働く者同士の連帯がなかったんだろうな」とも言った」とある。「彼」とは現役を引退した労働組合の元幹部であるが、まさしく「彼」の言う通りだと思う。本書で書かれたほとんどの問題は、日本の労働運動が企業別の労組をもとにしていて、働く仲間同士という共感を欠いていることに根ざしているのではないか。その問題はいまも続いている。

 たまたま手にした『労働経済情報』2008年秋号の「巻頭言」(中野隆宣)は「企業別組合をヨーロッパ型の産業別組合に転換すべきだ」と主張している。日本の企業別労組は「欧米の尺度では御用組合なり従業員組織であっても労働組合ではない」、「日本の常識は世界の非常識」と述べている。『貧困の現場』の著者に、こうした視点での現場報告を書いてもらえればと望む。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月18日 (火)

『日本は財政危機ではない!』が暴く官僚の腐敗

 小泉内閣と安倍内閣で郵政民営化、公務員制度改革などの改革プランを描いて、その実現に奔走した高橋洋一氏は財務省出身とはいえ、省益に立たず、彼の信じる国益に沿った諸改革を実現しようとしてきた。そして霞が関の官僚機構に忌み嫌われ、排斥された。

 同氏の新刊本である『日本は財政危機ではない!』は、日本の「官僚内閣制」の実態を主として財政の視点から明らかにしたものである。本書のエッセンスは241ページの以下の文章に示されている。

 「財務省をピラミッドの頂点とする官僚機構にとっては、議員内閣制など無きに等しい。彼らは与えられた権限を拡大解釈し、官僚による官僚のための政治を行ってきた。」、「官僚は大臣や族議員を取り込み、思いのままに操って、自分たちに都合の悪い政策はつぶし、利権につながる政策だけを実現させてきたのだ。」 

 同氏は「霞が関埋蔵金50兆円リスト」を挙げて、消費税増税云々の前にやるべきことが多々あることを指摘している。また、本書では、年金制度改革などについて、独自の視点で改革の方向を示す。それらの改革案は、経済学の理論を踏まえ、かつ霞が関官僚や政治の仕組みと実態を十二分にわきまえたうえでの具体策だけに、納得することが多い。

 霞が関の中枢にいる官僚たちの中には、自分たちの権益を守るため、平気でウソをついたり、インチキ文書をつくって地方自治体に流したりする者もいる。そうした実態も本書に書かれている。

 高橋氏は「終章  道州制で変わる日本の財政」で、「私が理想としているのは、「道州制を目指し、平時では市場原理ベースの社会、非常時に強い国」である。」と述べている。国の役割が道州に移れば、小さな中央政府になり、「中央レベルの官僚内閣制も自然消滅するだろう。」という。

 そして、「現在の不況や財政の破綻は、日本の国力が落ちたからではない。取るべき政策が、十分に採用されていないことに起因しているからだ」とも指摘する。

 本書198ページ以降で、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)に関して、ことし5月の経済財政諮問会議で民間議員から出された提案を批判している。高橋氏によれば、GPIFはグリーンピアなどで巨額のムダづかいをした年金福祉事業団が看板をすげかえただけ。同じ運用スタッフが業務を手がけ、前と同じように運用を丸投げしているという。「そんな厚労省の役人の天下りのためだけにある不要な独立行政法人が経済財政諮問会議を取り込み、もっともらしい理由をつけ、給料の値上げや(横浜への)移転の中止を要求している。」と厳しく批判している。

 このブログの5月25日付け「公的年金基金運用体制のありかた」では、この諮問会議のグローバル化改革専門調査会の報告を取り上げ、西欧の国々並みに運用成果を上げるようにすべきだと書いた。しかし、本書の「東京に住んでいる天下りのOBたちが通勤時間が長くなるのは嫌だというので、移転中止を求めているという話も聞いた。」、「これは私を含めて、霞が関に関係のある人間ならみんな知っている話」などといった裏があっての報告書だったとすると、私も考え直す必要があることになるが‥‥。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 2日 (日)

日本一の個人投資家の“哲学”を表した『花のタネは真夏に播くな』

 株価が途方もなく低い水準にある。こんなとき、株式投資に関心のある方には、「日本一の大投資家竹田和平が語る旦那的投資哲学」という副題が付いた『花のタネは真夏に播くな』(水澤潤著、08年10月10日刊)を一読するのを勧めたいような気がする。私自身、こんな破天荒の人物がいるとは全く知らなかったのだが。

 竹田和平という人は「まえがき」によれば、「今では『会社四季報(二○○八年夏号』で確認できるだけでも百四社もの株主欄に名前が載っている」という日本一の大投資家だそうだ。そして「株が、株であるというだけで叩き売られている今の時代ほど、投資に適した時はないと竹田さんは言う」とのこと。世界経済危機のいま、この時点でもそう言っているのかと疑いたくなるが、本書を読んだ限りでは、それは変わっていないと受け取れる。

 ここでは、読んで強く印象に残った個所を紹介する。

 企業の社会貢献(メセナ)活動について、竹田さんは「会社が株主に配当すべき金を使って社会貢献するなんて、本末転倒もはなはだしい話です。社長が引退してから、自分の身銭で社会貢献すべきなのです」と言っているという。私はCSR(企業の社会的責任)の一環として社会貢献活動をそれなりに評価しているが、経営トップが引退したあと、社会貢献活動をすべきだという意見には大賛成だ。

 竹田さんは、「お金持ちというのは、みんなから感謝されたいと思っています。ありがとうと言ってくれるのなら、お金は使いたいのです。お金持ちが喜んでみんなのためにお金を使える方向に税制を大きく変えるべきです」、ところが、いまの日本は「政府自身がネズミ小僧をやっている」、「本物のネズミ小僧は民間人でしたから庶民は拍手し感謝したのであって、政府がネズミ小僧をやっても国民は誰も感謝しないでしょう。福祉なんて、相手が政府なら、施してもらって当たり前だとみんなが思います。お金をもらっても感謝がない。もっとよこせと不満ばかりを言うようになります」、福祉は民間がやるべき仕事であり、政府はプレーヤーを兼任するのでなく、審判の立場に戻るべきだ、と語っている。

 ものを言う株主は絶対悪だという宣伝が国民全体に刷り込まれ、それを一番喜んでいるのは「官」だとみる竹田さんはこう言っているという。「株主が口を出すのは悪であって、監督官庁の御指示によって会社が動くのが正しいというような、刷り込まれてしまった意識の下では、日本の景気は、永遠に回復しないかも知れません」。

 以上のほか、「上がってよし、下がってよしの株価かな」などという竹田さんの発想や、会社、株主、政府などについての彼独自の見解も興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月21日 (日)

『官僚との死闘七○○日』を読んで

 東京新聞・中日新聞の論説委員である長谷川幸洋氏が、元財務省官僚の高橋洋一氏とともに安倍晋三政権に関わって、官僚支配体制の打破に取り組んだ闘いのルポである。新聞記者が蔭でとはいえ、ここまで政権の動きに関与することには疑問がないではないが、そこまで踏み込んだ結果、見えてくるものがあるのも確かだ。

 霞が関の中枢を押さえる財務省の動きに多くのページが割かれている。その中で、なるほどと教わったところがある。主税局OBの幹部の話の引用である。

 「財務省の水面下で戦われている基本的な議論の構図」、換言すれば「対立といってもいい」のは、「主計局が本当に狙っているのは、歳出削減ではない、増税なんです。それに抗するように、主計局に対して『増税を唱える前に、歳出削減にもっと汗をかくべきだ』と唱えてきたのは、つねに主税局なんです。」

 床の間を背にして、予算をつけてやるという立場の主計局は、財布をいつも一杯にしておきたい。だから、増税を志向する。これに対し、主税局は増税を認めてもらうにはあちこちに平身低頭でお願いするしかないから、増税よりも歳出削減を訴える。そういう構図があるというわけだ。

 「税収が増えたら使ってしまえ」という小見出しの文中には、実例をもとに、こんなことが書いてある。主計局は税の自然増収が多いとき、財政赤字減らしに回すよりも、補正予算を組んで使ってしまおうとする。なぜなら、自然増収で増税機運が遠のくのを避けるためだという。

 この本は、安倍政権が公務員制度を大きく変えて官僚支配体制を崩そうとするのに対し、霞が関の官僚たちが政権内部の政治家たちをも動かしてすさまじく抵抗する様子を描いている。それは、公務員ののりを超えた骨抜き作業である。小泉政権以来の霞が関改革が容易ではないことを感じさせる。

 それでも、公務員制度改革は福田康夫政権のもとで、民主党の賛成を得て改革基本法が成立した。その背景について、著者は「内閣を形成する政権中枢が事実上、改革派と抵抗勢力に分裂し、野党第一党の民主党が政権内改革派と手を組んだのである」、「政治を根底で動かしている基本図式はいまや『与党』vs.『野党』、『自民党』vs.『民主党』ではない。『与野党双方の改革派』vs.『政権内抵抗勢力』という構図にシフトしつつある。」と指摘している。

 今後の政局を占う点で、この見方はとても興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月17日 (日)

山岸俊男著『日本の「安心」はなぜ消えたのか』

 日本は「安心社会」から「信頼社会」への移行過程にある。だが、「移行を待ちきれずに、日本の社会は崩壊してしまうのではないか」。それが山岸俊男北海道大学大学院教授が本書『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(08年2月29日刊、集英社インターナショナル)を書いたモチーフだという。

 企業の相次ぐ不祥事で、企業=悪というような発想が色濃く残っている日本では、お上による取り締まり強化を求める声が強まっており、その関連で武士道をたたえる書物などが売れている。しかし、社会心理学などの研究者として知られる著者は、「情けは人のためならず」、つまり「モラルに従った行動をすれば、結局は自分の利益になるのだ」という利益の相互性を強調する商人道と、「人間性に基づかない、いわば理性による倫理行動を追求するモラルの体系である」武士道とを対比し、前者こそが「人間の利他性を支える社会のしくみを作る」ものとして日本に求められていると言う。

 著者によれば、地球上には「安心社会」と「信頼社会」の2つがある。前者は閉鎖的な集団主義の社会で、相互監視と制裁によってお互いの間の不確実さを解消する。人々に安心を与え、生活の安定を保証する。身内と波風を立てず、控えめに行動する社会である。そしてよそ者を嫌う。言うなれば、和の社会であり、信頼を必要としない社会である。これに対し、後者は自らの責任、リスクで他者と積極的に人間関係を結ぶ。そこでは、法制度が安心を提供する。そのほうがメリットが大きい。ことわざで言うと、前者は「人を見たら泥棒と思え」、後者は「渡る世間に鬼はなし」だという。

 過去、閉鎖的、集団主義的な「安心社会」で経済発展を遂げた日本は、グローバル化、情報化などにより、「安心社会」の枠組みが崩壊しつつあり、他者との協力関係を構築する「信頼社会」への移行を求められている。著者によれば、規制緩和、情報公開、法令順守などの改革は「安心社会」から「信頼社会」へシフトチェンジしようとの試みであり、それは同時に、日本人の価値観を「統治の倫理」から「市場の倫理」に転換していこうという試みである。

 そこでは、自由かつフェアな競争、正直な取り引きなど市場の倫理が栄えないと、グローバル社会では生きていけないという危機感があったはずだという。ところが、「信頼社会」と全く相容れない武士道、即ち、大義のためにはすべてを犠牲にするという「統治の倫理」がもてはやされるようになった。まして、水と油ほどに違う武士道と商人道とをまぜこぜに用いたら、社会全体が腐敗しかねない。したがって、著者は、正直者が損をしない社会制度を築くことによって、「市場の倫理」である商人道が自ずと普及することを期待している。

 ほかに、本書で、興味深い指摘だと思ったのは、1つには、若者の価値基準になっている“KY”について、「場の空気を読み、他者との間に波風を立てない生き方は、本来、安心社会の中で評価される生き方であるはず」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはず」、「若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での平安を求めているとしたら――これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるをえません。」

 いま1つ、日本人は「むしろアメリカ人よりも個人主義的な色彩が強いのではないかという印象を持ちます。」。それは「日本人がアメリカ人よりも他者一般に対しての信頼感が低いことと関係があるのではないかと思わされます。」。いろいろな調査の結果だけに、説得力もあり、納得した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月27日 (日)

『資本主義 2.0 宗教と経済が融合する時代』

 『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』の著者、水野和夫氏と、創価学会などにくわしい宗教学者、島田裕巳氏の対談を本にした『資本主義 2.0』(講談社、2008年5月)を読んだ。異分野の、しかもユニークな両氏の対談だから、おもしろそうと思ったから。

 企業が国家を超える、国家の存在を抜きにして経済が動く。資本主義の大前提である「国と資本の一体化」がグローバル化で崩れた。1995年以降のこの経済の新しいバージョンはまだ名前がないので、水野氏は「資本主義 2.0」と呼ぶ。そして、それ以前の資本主義(「資本主義 1.0」)と比べた変容をさまざまな面から指摘する。宗教との関わりもその重要な論点である。

 「資本主義 2.0」では資本を持つ者が常に有利であり、資本を持たない者、労働を提供するだけの人々は、努力しても生活水準が下がっていく。それは世界のどこでも起きてくるという。「私たちは、おそらく五百年に一度訪れる、大きな変革を前にしている」のだとして、人々のための経済に変えていくための解を出さねばならないと水野氏はあとがきで述べている。

 島田氏の話も含めてだが、論点があちこちに広がる分、教わることが多いが、終章「これからの五百年をリードする日本」の内容はいささか希望的観測に過ぎるのではないかと思えた。

 本書で、水野氏が財政について触れているところを紹介するとーー

 「巨額の財政赤字を減らせないというのは、現在の歳入・歳出構造が「資本主義 2.0」に対応していないからです。対応できていないゆえに財政が赤字なのであって、景気拡大で税収を増やして財政を均衡させようとする対応は、いまだに「資本主義 1.0」が続いているという考えの上に立ったものでしかないのです。                            だから、これまでにやったことがないような方法で早期に財政を均衡化して、教育やエネルギー開発に投資せねばなりません。経済が安定しているときは、財政が赤字でも時間が経てば取り返せますが、経済構造がドラスティックに変わるときには、国が借金を抱えていては、国として積極的に「資本主義 2.0」にかかわっていけないのです」(233-234p)

 日本は「高度成長の記憶がまだ根強く生きています。経済が発展しさえすれば豊かになれるのだという意識から脱却できない。時代は大きく変わり、事態が根本的に変化したのだということを認識しようとしていないように見えます」(236p) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)